まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

鼻から胃カメラをやってみた

(ふつうの真面目な話です)

25歳ぐらいの頃の話。

社会人を始めたら胃を壊し、朝飯の食べられない日が続いた。
医者に行ったらピロリ菌がめっちゃいっぱいいるということなので、除菌治療したついでに、胃カメラをやることになった。

世の中で医者の言う「とりあえず胃カメラ飲んでみましょう。最近のは楽だから」ほどのウソは無い。

僕以外に2人、うっかりその言葉を信じて胃カメラをやって世界の終わりのような苦しみを味わった人を知っている。(1人はDPZのさくらいさん)
20年経った今でも、生々しく思い出せる。
あれ以来「こんなこと二度とされないように、真っ当に健康に生きていこう」と健全な生活を指向するようになった。

 

あれから時が経ち、僕はいま年に一回、石の粉を溶かした下剤入りの液体を飲まされ、放射線を浴びながら台の上を縦横無尽に転がされるという、謎の処遇を受けている。
それ自体は胃カメラよりずっとましなのだが、下痢の後に便秘になり、さらに悪い時には痔にもなり、なのに得られる画像の精度は大して良くないという、モヤモヤの残る検査だ。

しかしこれを我慢しなければ、看護師2名に押さえつけられ叫びながら顔面全ての穴から液体を垂れ流すアレをしなくてはならない。それは無理だ。

昨年、ドック終了時の問診のお医者さんにこの悩みを相談したところ、過去に除菌も潰瘍もやっているなら、いっそ胃カメラにしましょう、鼻からなら相当に違いますよ、とアドバイスを受けたので経鼻の胃カメラをやってみることにした。

 

結論から言うと、楽ではないが、経口のときの20〜30%ぐらいには苦しいな、という感覚だ。

経口カメラが入ってくる時の「飲み込めるわけねーだろ!」という直感的抵抗と身体的拒絶はそれほどない。

鼻の奥を通るときに少し痛い。また、のどを通るときにも4〜5回「おえーっ」となるが、経口カメラのときの、精神を殺されたような感じにはならない。検査後も軽い放心状態ぐらいで済む。

1日ぐらいは鼻の奥が物理的に痛いが、おとなしくしていれば治る。

 

バリウムとどっちが嫌かとなると、少し悩むが、その瞬間だけで済むので、やや経鼻カメラのほうがマシに思える。なにより、得られる検査画像がカラーで鮮明なので、やった甲斐があった感じにもなる。

 

結論:来年からは予約頑張って経鼻カメラにしていきたい。

山田が死んで、もう4年になるのだな

この時期になると亡くなったあの人を思い出す、というのは誰しもあると思うが、僕にとって正月という季節は、4年前に亡くなった山田のことを思い出す季節だ。

 

山田祐資(やまだ・ゆうすけ)は大学の1つ下の後輩、2019年1月6日に難治性のがんが寛解せずに38歳でこの世を去った。常にシニカルでコミカルで酔狂を気取る彼は、彼らしいスタイルを保ったまま、自分の死生をしっかり見つめながらこの世を去っていった。

 


2017年4月18日 NHK EテレハートネットTV「がんと共に歩む力を」より

 

その飄々とした姿は全くもって「山田らしく」、不自然なところは無いかのように僕の目に映っていたのだが、あれから4年経ち、一つの言葉をきっかけとして彼の胸中にまた思いを巡らせている。

 

『“がん”になったと言うと、哀れみの目で見られる』

これは、別のがん患者の方がこの記事で語っていた言葉だ。

がんになっても... | 生き方 | NHK生活情報ブログ:NHK

山田が末期のがんだと知ったとき、僕が彼に対して哀れみの目というか、その種類の感情を全く持たなかったと言えば、うそになる。
いつでも「ハッハッハッ」と笑い飛ばしてる彼のことを思い出すと、「山田が……あの山田が……?」と何か悪いジョークを聞かされている気持ちが先立ったのだが、それでも知らせが嘘ではないとわかると、彼の背負った定めを想い、数%はそういう気持ちを持った。

 

しかし、2017年11月、大学の仲間で囲んで集まったときの山田は、驚くほど元々の彼から一切のキャラぶれが無い、哀れみという感情など微塵も感じさせる余地がないほどにいつもの山田だった。



加藤「え、山田、会社はやめてないんだ」
山田「は?あたりまえですよ。 1000分の1ぐらいの確率でここから俺のガンが治ったとしたら、そんときウチの家族はどうやって生活したらいいんスか」

こんな調子である。
体重もなんならハートネットTVに出たときから、少し太ってすらいる。

相も変わらずえらそうなのでそこを厳しくツッコむと「ちょっとー、こう見えても重病人なんだからちょっとは優しくしてくださいよ」と言って、ハハッと笑う。
みんなが「山田だ……」「ああ、山田だなあ……」という安心感とともに彼との再会を楽しみ、なんなら、そのまま1000分の1の確率が起きるんじゃないかなという雰囲気で会を閉じることができた。

 

がんになって以来、山田はみんなが驚くぐらい精力的にあれこれ活動をしていた。

最初に載せたNHKへの出演もその一つだ。

がんと共に歩む力を | NHK ハートネットTV

ここでも山田はいつもの山田で、「末期がんになってこんなに泰然としてる人、いる?」と視聴者の心に存在を深く刻んだのではないだろうか。

これ以外にも大学の先輩に誘われて論文の共著に参加したり、

がんに関する学会や団体でどんどんプレゼンしに行ったりと、おいおい病人だろ?と突っ込みたくなるほどアクティブに、誰にも真似できないレベルでがん患者としての活躍ぶりを見せていた。
しかもこんな活動の傍ら、海外に行ったりXJAPANのライブに行ったりしているのである。Facebookに残るその軌跡が惜しくも友人向け公開なのだが、いつか書籍化されてもいいくらいだ。

 

しかし1000分の1の確率は起こらず、標準治療を全て終えて緩和ケアに移った彼は、2018年の年末に「セデーションに入ります」とFacebookに書き残し、みずからの意識をこの世から消し去った。
※セデーション:意識の段階を落とす緩和治療

これまで饒舌にFacebookで自らの治療や活動について語ってきた彼を思うと、この投稿はあまりに短い。

彼の真意はわからない。たとえ聞けたとしても「え、真意なんてないですよ」とか言うタイプの奴である。それでも僕は、彼が心の根底で「長々書いたら哀れっぽくなるじゃないスか」と思っていたのではないかと思っている。

 

1月になり世を去った彼は、葬式に来ていた僕らに向けて自筆の弔辞を用意していた。

「普段より『態度がエラそう』と言われている僕ですが、皆様より先に旅立ちまして、ここにいる誰よりも少し先輩となったわけですから、今回は少しだけエラそうに言わせていただきます!」というキラーフレーズで葬儀に笑いを巻き起こした彼は、最後までひとつも僕らに哀れみを感じさせるスキを与えなかった。

いつかは誰にでも死は訪れる。それがちょっと早かった人を哀れに思うことなんて無いのだ。

それでも弔辞で「娘たちはまだ幼いので、ぼくのことを忘れないように、成長に応じて何度かぼくのことを話してやってください」と言い残したような、彼がたまに少〜しだけ見せる弱みが、皆を惹きつけるポイントでもあったのだと思う。

 

あれから4年、娘さんたちは少しでも大きくなったはずなので、あのときの山田の依頼を果たすためにこのブログを書いた。
僕の記憶に残る山田の言動が少しでも、お父さんに思いを致す手がかりになればいいと思う

ぼくが落語にはまるまでの道すじ

ここ2年、僕は急速な勢いで落語にはまり込んでいる。自分でも驚くぐらいだ。

「落語?……好きな人もいるみたいだねぇ……」という、2年前の僕みたいな人に、いったいどういう経緯で落語に人は凝り出すのかを記録しておきたいと思う。

寄席に行ったこともあったけど……

僕が20代の頃、落語好きに対して持っていたイメージは以下のようだった。

  • その熱意がよくわからない
  • 知らない名前をごちゃごちゃ言ってうるさい
  • 談志談志しつこい

なんというかジャンルとして「私は文化人だ」と言う香りがきつすぎるような、そんなイメージがあったのだ。同じ印象を持っている人は多いと思う。

末廣亭(新宿にある有名な寄席)に行ったこともあったが、大きく印象は変わらず、そのまま20代、30代を終えた。

 

志ん朝」を知る

それがある日一変してしまった。
古今亭志ん朝の「品川心中・夢金」を聞いたことだ。

叔父の遺品として転がっていた1枚のCDを何気なく聞いたその1時間を境に、僕の落語に対する見方がまるで変わってしまった。

 

志ん朝を知ったときの衝撃は過去の記事にも書いた。

masayukilab.hatenablog.jp


この頃の僕は、可能な限りの志ん朝の音源を探し回っては繰り返し聴くという。20代の頃の情熱を取り戻したかのような勢いで志ん朝に夢中になっていた。

落語ガイド本などに、「落語に対してどの入り口から入ったらいいのか」というQ&Aがあるのをよく見るが、僕は僕なりに一つの答えを言える。

志ん朝の「夢金」か「明烏」を聞くことである、と。

落語とは演劇論的観点としては「複数役を演じる一人芝居の形式」であるのだが、それが何を志向すべきものであるのか、最も体現した落語家が志ん朝のように思えた。

 

 

あっ!しまった、文化人ぽく語ってしまった!

さっき自分で「ごちゃごちゃうるさいのがイヤだった」と言いつつも、ついつい語ってしまった。

こうして1年ほど志ん朝を純粋に追い続ける時期が続いたのだが、志ん朝師匠はもうこの世を去っているので、「その新しい落語を聴くことができない」という事実に対してどうにも解を見つけ出すことができず、それを解消するために令和の落語家にも目を向けるようになった。

志ん朝のスピリットをもっとも濃く受け継ぐ落語家は誰なのか?」という問いへの答えを探すスタイルで落語を聞くようになり、そこから幾人かの落語家さんの寄席を見に行きたいと思うようになった。

春風亭一朝

youtu.be

歯切れのよい江戸弁が素晴らしい。志ん朝師匠の落語は僕にとって「安心しねぇ、江戸はどこにもいっちゃあいねえ、俺の中にいるぜ」と語りかけているかのように思えたのだが、一朝師匠の江戸弁にもそんな面影があるように思えた。
講談が元になった演目を多く手がけてるのもよい。

 

五街道雲助

紫綬褒章受章の大御所。志ん朝師匠と同じ古今亭一門。
滑稽さ、馬鹿馬鹿しさ。人情。人の世のさまざまな要素が同居するのが落語の良さだと僕は思うのだが、艶がある声質と品の良い語りのリズムでその多声性を表現しきる技術がすばらしい。

 

柳家喬太郎

集客力でいえば現在の落語会の頂点にいる師匠。
新作を多く演じるが、古典をやってもその超絶技巧が素晴らしく、何を聞いてもその表現力に圧倒される。爆笑しながら感動できるという落語の楽しさを、最も味わわせてくれる。

(落語をよく知っている方が読むと「偉そうに!」という感じがすごいでしょうが、初心者のかたにむけて「どの入り口から入ったらいいのか」の実例を一つ示しているだけなので許してください)

 

逆にダメだったもの

古い音源の名師匠シリーズ全般(志ん生、枝雀、小さんなど)は初心者には難しい。
録音が古いのでノイズがけっこうすごく、初心者がスッと入っていく入り口としては少し障害が大きい。
落語を聞き慣れるとノイズ以外の部分に耳が向かうようになるので楽しめるのだが、最初の頃はどうにも難しかった。

 

寄席に通うようになって

2022年になってからは、感染症周りもひと段落つくようになってきて、寄席に通うことが可能になってきた。

幸い、茨城県に住みながらも、浅草駅が電車一本に行ける範囲にあるので、今年は月に1回を目標として淡々と寄席に通い続けた。その中で幾人かまたさらに聞きたいと思える落語家に出会うことができた。

神田伯山

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説明不要な有名講談師だが、寄席で初めてその芸を見たとき壁に吹っ飛ばされるような衝撃を受けた。志ん朝クラスの伝説になること間違いなしのプレイヤーと時代を共にできたことだけで幸せを感じる。

三遊亭遊雀

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他の誰にもできないような、めちゃくちゃに緩急の効いた落語がすごい。最初は何が始まったのか分からなかったが、中盤以降爆笑しっぱなしで終盤まで駆け抜ける。こんな芸があるのかとびっくりした。

 

これ以外にも「またこの人を見よう」という師匠がずいぶん増えた。
演目にもずいぶん詳しくなって、「○○のやる『××』は……」というトピックもだいぶ読みこなせるようになってきた。

それでも、落語未経験者の人が引くような落語との付き合いにはならないよう、十分に気をつけて寄せ通いを続けて行こうと思う。

歩いて山手線、1周チャレンジ

「山手線1周を歩く」と「ことわざを実際に試してみる」は、平凡な企画のネタ例として双璧を為すように思うが、そうやって腐される割にやったこと無い人の方が多いのでは無いだろうか。

歩いて一周すると40kmを超え、並みの体力の人間ではそう簡単に完歩はできない。
そして実を言うと、いつか僕もやってはみたいなと、心の奥で思っていたことでもある。

めんどくさい感染症も治まってきたし、天気が良い秋の日に、秋葉原から反時計回りに歩き始めてみた。

チャレンジャーの基本情報

・年齢:40代男性。
・体力:マラソンは趣味だったが、最近は全然。
・都内の知識:18歳まで都内暮らし。学生時代からつくば市在住。

1 秋葉原

俺たちのつくばエクスプレス始発駅。

2 御徒町


朝陽を浴びるアメ横を歩き抜ける。いつの間にか中華都市化している。

3 上野


久しぶりに来たら、公園口側の横断歩道が消滅し広場になってた。いつから?

 


小道のような跨線橋跨線橋大好きなので、地図では見にくいものを一つずつ発見して楽しむ。

4 鶯谷


駅前の飲み屋街がエモい。


谷中霊園沿いのGoogleマップでは見えない小道を通る。アガる。
結婚したての頃、ここに親父と散歩にきて、親父が得意げになってヨメに有名人の墓をレクチャーしていたのを思い出す。今思い出してもマイペースが過ぎる。

 

5 日暮里


このあたり、跨線橋が多くて楽しい。
ヨチヨチの幼児たちが電車に夢中になっている。
うちの子供(小1)にも、あんな時期あったな、とメランコリーになる。
早く孫の顔が見たい。

 

6 西日暮里


でかい何らかの構造物。

 

7 田端


田端。降りたことが一度も無い。

 

西日暮里からここまで崖の上を歩く。北方向への見晴らしがいい。山手線は崖の下をずっと走る。駅の南口(上の写真)は崖っぺりにあってかっこいい。
初めてくる駅のうえに、見どころと情報量が多くて本当に来てよかったなと思った。


山手線はここで大きく南に転回する。
線路は崖を突き抜けるように掘り抜かれており、橋の上からよく見える。
しかし考えようによっては、山手線で田端の町が分断されているのだが、もうそういうものだと思ってみんな暮らしているのだろう。

 

8 駒込


山手線唯一の踏切が駒込駅の少し手前にある。もうじきなくなるらしい。あるうちに見られてよかった。詳しくは三土たつおさんの名記事を参照。

 

 

9 巣鴨


古い都営住宅撮ったら、ありえないほどナナメった。
少しずつ疲れ始めている。

10 大塚

通っていた高校があった駅。
30年経つが、ここの風景が全く変わっていなくて驚きのあまり目を疑う。
遺跡か。

 


毎朝、吐きそうになりながらチャリ漕いで駆け登った跨線橋(西巣鴨橋)が老朽化で取り壊されていた。寂しい。

 

11 池袋


下町ゾーン終わり。
さすがにちょっと足裏が痛い。

12 目白



13 高田馬場


「ザ・東京の街中」という風景が続く。特になし。

14 新大久保


足裏のマメが順調に成長してきて痛い。


思い出横丁に外国人観光客の姿が帰ってきた。嬉しい。
僕もここまで抑圧されたぶん、思い切り遊んで回ろうと心に誓う。

15 新宿


東口の果物屋が無くなったらしいが、見に行く元気が残っていない。
ちなみにここまで17km。
完歩は無理だろうなと悟る。

 

16 代々木

ビルの建て替えで、代々木駅の古いところが見られると聞いていたけど、もうあまりいっぱい見られなくなっていた。
でもちょっとだけ見えた。

 

17 原宿


駅舎が全然無くなっていて驚く。
完全に東京のペースから取り残されている。

 

18 渋谷


改修のニュースばかりは聞いていたが、変わりすぎてて訳がわからない。
(そもそもあまり詳しく無いが)


最高にしびれる跨線橋が渋谷〜恵比寿間にある。
今年度中に取り壊し予定と書いてあったので、目にすることができて本当によかった。
しかし足裏のマメが限界に達して、階段を昇り降りするたびに激痛が走る。
それでもこの渋い魅力の方が勝る。

こんなかっこいいものが、この世からなくなっていいのか。

 

19 恵比寿


ここも降りたことがない駅。


途中、スマホを差し入れるとありえないぐらいの至近距離で山手線を撮影できる場所があった。
体力はまだ持つが、これ以上足裏マメが悪化すると仕事できなくなるので、次の駅でのリタイアを決意。

 

20 目黒

ここで今日は打ち止め。自撮りを忘れた。

駅前で「がーなニ ショガッコウヲ タテテイマス!」と募金活動に声を張り上げる黒人男性を尻目に、どこかのマダムがメルセデスGLEで私立小に通う息子を迎えに来ていた。
マンガのような格差だ。
募金箱に1000円募金してから、山手線に乗り、秋葉原に戻った。

 

まとめ

・変化があって、ウォーキングのコースとしては楽しい
・いつでも補給&リタイアできるので、気軽に挑戦できる
・素人の完歩はきつい
・あらかじめGoogleマップでコースを登録しておいた。意外と分岐が複雑で難しいところもあるので、その方が不安がなくてよかった

足首骨折・入院記録⑥最終回 どこまで運動ができるか

〜あらすじ3行〜
・2017年3月、雪山で滑落して、右足首を脱臼骨折
・手術してプレートを埋め込むも、1ヶ月半でプレートが細菌感染
・緊急手術をおこなったのち、17日の入院を経て社会復帰

 

そして5年後の今、前からやっていた運動で、復帰することができたのは、

・軽いジョギング
・登山

この二つである。

2019年に登った尾瀬至仏山

複雑でランダムな動きがないものは、なんとかなるようである。
足首自体はちょっとジンジンしても、深く痛むことは無い。

 

いちばんダメなのは「サッカー」だった。

近所の小学生や幼稚園児と遊びでやるようなものでも、ランダムな体重移動が悪いのだろう、翌日になると骨に刺し込むような痛みが出るようになった。
「スポーツ鬼ごっこ」という地域活動に回復したら参加してよ、と昔からの友達に誘われていたのだが、そんな高度な瞬発体重移動に耐えられる気がせず、断念せざるを得なかった。

 

長く趣味としていた「マラソンのレース」にも挑戦してみた。

退院してから1〜2年はジョギングするとダイレクトに痛む感じが強く、定期検診でも結果が良く無かったので出走は控えていたのだが、3年後の2020年、そろそろ走れるかもしれないという感覚があり、ハーフマラソンにエントリーした。

本番の2ヶ月前ぐらいから、出走に向けた練習を重ねた。
スピードを上げると明らかに痛むので、悪化を防ぐためにトレーニング後は氷の入ったバケツで足首ごと冷やし、湿布を巻いて寝るなどの対策も行った。

 

結果、無事に完走することができた。
タイムは2時間3分ぐらいだったと思う。

骨折した時はもうレースは二度と走れないと思っていたので、レースにエントリーし走り切ることで、過去の自分とリハビリで悩んでいる人に「大丈夫、走れるよ」と伝えたい!、という気持ちで頑張った。

しかしそれからしばらく受傷部は痛く、直後の定期検診で「順調に悪化してるね」と主治医の先生に申し渡されたので、レースに出るような練習はこれを最後にやめることにした。

それでも、骨折を乗り越えてレースに一度でも出ることができたので後悔は無い。

 

結果、主治医のおすすめと僕の嗜好がちょうど重なった到達地点は「自転車」である。
足首への負担も少なく、ちょうどいいリハビリにもなる。
僕自身も持久系・移動系の運動の方が好きなので、割と無理なく取り組める。
ハーフマラソンに出る少し前からロードバイクを始め、それほどの頻度でも無いが楽しむことができている。

いつかもう一度やってみたかった「空手」は到底できそうになくなってしまったのは残念だったが、かわりにニンテンドーSwitchの「フィットボクシング」を適当にやってなんとか楽しんでいる。

なお、スポーツでは無いが、ダメになってしまったものに「ビール」がある。
他の酒に比べて、飲むと明確に関節がむくむので、缶2本ぐらい飲むと翌朝足が熱く腫れる。最悪の場合、距骨の炎症が悪化して歩けなくなる。

というわけで骨折を機に「ビール」を大幅に減らし「自転車」を始めるようになったので、100歳ぐらいまで生きてしまったりするんではないかと、いい転機になった気さえしてしまう。

とうとうおれも宝塚を見に行くのか

「宝塚」は文化趣味の中でも、もっとも男女間の嗜好差が激しいものかもしれない。

僕も宝塚出身女優は何人か知っていても、舞台自体を見に行くことについては、機会のニアミスを繰り返し、結局一度も無かった。興味の度合いは、その程度である。

しかし、このたびとうとう自分でチケットを予約・購入して見に行くことになろうとしている。好きな後輩の小説が原作となり、星組公演で舞台化されるからだ。

 

 

並木陽、は学生時代の文芸サークルの後輩だ。

入学したての18歳の頃から、本格派の歴史小説を続々と書き上げるすごい人材で、とんでもないのが入部してきたなと一撃でファンになった。
筆名も当時から一貫しており、作家としてのスタンスがすでに定まっていたのを実感する。


当時サークルで発行されていた同人誌より

 

ていねいな取材に基づいたリアルな叙述が彼女の作風で、店の名前や小道具にひとつ至るまで精密に描くことで、その時代に生きているかのような感覚に浸らせてくれる。途方もない熱意と愛情がなければ、こういう作品は生まれないだろう。

彼女はその後も同人活動を通して創作を続け、2017年には同人作品『斜陽の国のルスダン』がNHK-FM青春アドベンチャー」でラジオドラマ化されるという大きな成果を挙げる至った。

僕はミュージックスクエア青春アドベンチャーの流れを愛聴していた高校生だったので、この枠に知己の作品がオンエアされるというのは、人生のイベントとも言えるほどうれしい出来事であった。

そして驚くことに、並木さんはその後毎年たて続けに青春アドベンチャー枠で作品を発表し続ける。

  • 2018年『暁のハルモニア』(2週連続)
  • 2019年『紺碧のアルカディア』(2週連続)
  • 2020年『悠久のアンダルス』(2週連続)
  • 2021年『1848』(3週連続)
  • 2022年『軽業師タチアナと大帝の娘』(3週連続)

ウィキペディアを見ると、書き下ろし作品で3週連続なんてやっているのは並木さんだけなのですごい胆力だなと驚嘆する。

『タチアナ』のオンエアは先週終わったばかりで、今年も僕は至福の3週間を過ごし、いつもなら翌年の作品オンエアを心安く待ち受けるところなのだが、今年はルスダン改め『ディミトリ』の宝塚公演が待ち受けている。

行くのか……とうとうおれも宝塚に行くのか……

 

公演を前にして、原作『斜陽の国のルスダン』が商業出版へと切り替わるらしい。

 

まずはそれを購入し、心を落ち着けようと思う。

昭和二十六年、祖父の贈賄容疑を探る(2009.10.15公開記事を再掲)

僕の祖父は名を加藤文吉といい、明治43年に生まれ、平成5年の僕が中学3年生のときに83歳でこの世を去った。もう16年前の話になる。

じいちゃんは質実剛健かつ豪放磊落な感じの人で、75歳まで会社で仕事をし、引退後は書道と囲碁を嗜んでいた。
老人同士で集まるのをあまり好まず、最後まで威風のある生き方を通した人だったと思う。

これは僕がまだ2~3歳の頃、祖父の胸にカンガルーのように抱かれている写真だ。

記憶の中に在る祖父は厳しく、静謐な雰囲気を持つ人だが、孫にはやっぱり優しかった。
僕は小学生の頃、祖父の散歩に常にお供を申し付けられ、そのたびにハンバーガーやホットドッグにありついた。遠くまで散歩に出るときは、浅草で寿司を食わせてもらったり、新宿で天麩羅をご馳走になったりした。
要は、なかなかにかわいがられていたのだ。

 

父や叔父も含めて、祖父のことを敬っていない人はなく、完全無欠とまではもちろん言えないが、芯の強い立派な生き方をした人だった、というのは家族の共通理解のように思える。

 

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さてそんな祖父だったのだが、先日の事になる。

ネットをだらだらと見ていて気だるくなってきた僕は、暇に飽かせて祖父の名前をネットで検索してみた。
検索結果は41件。
祖父の名前で表示される全然別人のことがほんのりと面白くてそれらを眺めていた。ネット時代の前に亡くなった人だったので、引っ掛ってきたのはほとんど全部、同姓同名の別人だったのだけれど、ひとつだけ、「あれ? これはじいちゃん本人ではないか?」と思われる検索結果があった。

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