まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

昭和二十六年、祖父の贈賄容疑を探る(2009.10.15公開記事を再掲)

僕の祖父は名を加藤文吉といい、明治43年に生まれ、平成5年の僕が中学3年生のときに83歳でこの世を去った。もう16年前の話になる。

じいちゃんは質実剛健かつ豪放磊落な感じの人で、75歳まで会社で仕事をし、引退後は書道と囲碁を嗜んでいた。
老人同士で集まるのをあまり好まず、最後まで威風のある生き方を通した人だったと思う。

これは僕がまだ2~3歳の頃、祖父の胸にカンガルーのように抱かれている写真だ。

記憶の中に在る祖父は厳しく、静謐な雰囲気を持つ人だが、孫にはやっぱり優しかった。
僕は小学生の頃、祖父の散歩に常にお供を申し付けられ、そのたびにハンバーガーやホットドッグにありついた。遠くまで散歩に出るときは、浅草で寿司を食わせてもらったり、新宿で天麩羅をご馳走になったりした。
要は、なかなかにかわいがられていたのだ。

 

父や叔父も含めて、祖父のことを敬っていない人はなく、完全無欠とまではもちろん言えないが、芯の強い立派な生き方をした人だった、というのは家族の共通理解のように思える。

 

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さてそんな祖父だったのだが、先日の事になる。

ネットをだらだらと見ていて気だるくなってきた僕は、暇に飽かせて祖父の名前をネットで検索してみた。
検索結果は41件。
祖父の名前で表示される全然別人のことがほんのりと面白くてそれらを眺めていた。ネット時代の前に亡くなった人だったので、引っ掛ってきたのはほとんど全部、同姓同名の別人だったのだけれど、ひとつだけ、「あれ? これはじいちゃん本人ではないか?」と思われる検索結果があった。

 

以下のページになる。

 

参議院会議録情報 第012回国会 通商産業委員会 第16号

国が作成している、参議院の議事録の集成のようなものと思われる文章だ。
昭和26年のもので、文字だけが延々と続く、いかついページである。

しかしこれを読むと、この中にはっきりと「加藤文吉」と、祖父と同じ名前が数回出てきている。そしてその男の役職は「東京洋紙商協同組合参事兼事務長」らしい。

これがすごく僕の気をさわがせた。

祖父は、当時東京で、洋紙の流通に携わる仕事をしていた可能性があったのだ。祖父が75歳まで勤めた会社はどこだかの洋紙販売会社で、お陰で子供の頃は、家にいつでも子供の落書き用に高級ケント紙があふれていたから、はっきり覚えている。これは間違いない。祖父は戦後の混乱期には、転々と仕事をしたと聞いていたが、昭和26年にはすでに洋紙の仕事をしていたのだろうか。

 

気になった僕は、さらに記事を読み進めることにした。いったい祖父かもしれないこの「加藤文吉」氏は、なぜ参議院の議事録に名前が載っているのか。何をしたというのか。

60年前の文章で対話形式、ということで非常に読解しずらいところが多数あったのだが、それでも頑張って読解し、解釈してみると、以下のような構図が浮かび上がってきた。

簡単に言うと汚職に関わる話だ。逮捕されたのは4人。

当時の不況下で資金繰りにあえぐ中小企業が、経営資金の融資を商工組合中央金庫に申し込む。その便宜を図るように贈賄を働いた東京製材協同組合の高橋という人と、商工中金品川という人が逮捕。
その捜査を進めるうちに、他団体も贈賄していた可能性が持ち上がり、東京洋紙商協同組合の加藤文吉と、東京製材協同組合の松岡という人が逮捕され、取調べを受けたという話のようである。

 

贈賄。

 

祖父のイメージからはわりと遠い単語だ。
責任感が強く、家族みんなから尊敬されていたじいちゃん。
孫を愛し、兄貴には砂場を作ってくれ、僕には旨いものをいっぱい食べさせてくれたじいちゃん。
いったい、この「加藤文吉」氏は本当に祖父なのだろうか。

 

この議事録の中でひとつ気になる点がある。この「加藤文吉」氏は、自由党の代議士の秘書をしていた、と書かれている点である。

じいちゃんは、一緒に散歩しているときに、自分の話をぽつりぽつりと話してくれることはあったが、そこから僕が知っている祖父の職歴は、高校で中国語の教師をしていたということと、東京裁判で中国語の通訳をしたということぐらいである。代議士秘書の話を聞いたことはない。

というわけで、状況的なものから「加藤文吉」が祖父である可能性を検討すると以下のように整理できる。

 

◎戦後の東京で洋紙の販売をしていた「加藤文吉」なんて、そう何人もいないだろう。多分じいちゃんじゃないのか。

●でも自由党の代議士秘書をしていたなんて話、本人からも親父からも聞いたことがない。

●そもそも、大陸引き上げ後数年、洋紙の仕事を始めたばかりだろうというのに、組合の事務長をやっていたのだろうか?

 

最後の項目に関して説明をするために、ざっと祖父の経歴を説明したい。

祖父は山形県酒田市で生まれたのち、旧制酒田中学校を卒業、東京外国語専門学校、今の東京外国語大学へ進学し、中国語を専門に学ぶ。(なのでうちのじいちゃんは、英語もロシア語も中国語もできた! 自慢!)
卒業後、満州鉄道に就職し、中国大陸へと渡る。満州鉄道は国策会社だったので、半軍人のような形で戦争に携わったのではないか、と親父から聞いているが、じいちゃんは戦争のことについて全く話さない人だったので分からない。

敗戦後、裸一貫で引き上げてきた後、酒田と東京を行きつ戻りつしながら、東京で生活していける算段を立て、千代田区の九段に家を買う。
これが僕の生まれ育った家となる。
件の贈賄事件があったと考えられるのはこの頃だ。東京で生活できる算段が付いた頃なので、まだ安定した仕事をしていたかどうかは分からない。洋紙の仕事に就いていたかも分からない頃なのに、組合の事務長なんてやっていたのだろうか?

 

考えていても埒が開かない。

幸いなことに、先の議事録には「去る十五日の毎日、読売両新聞に贈賄、收賄の事実があり、不正融資の疑いもあるという報道があります。」と書いてある。つまり、昭和二十六年十一月十五日の新聞を見れば分かるのだ。

僕はじいちゃんの贈賄容疑の真偽を突き止めるために、図書館へと向かった。

 

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祖父は明治43年、西暦に直すと1910年生まれだから、昭和26年である1951年には41歳になっているはずである。新聞には普通、容疑者の年齢は載っているので、その男が41歳であるならば、非常に高い確率で祖父であるということができる。

 

僕は図書館一階の、新聞バックナンバーコーナーに向かい、昭和二十六年十一月十五日の新聞を捜した。

 


こなへんかな……

 


ここだ! 間違いない。

 

 


で、発見しました! それっぽいもの!

 


そして十一月十五日の社会面を開くと……

 


あった! 「融資の伏魔殿、商工組合中央金庫の記事!

 

下に拡大した記事の画像も載せておいたが、併せてテキストでまとめておこうと思う。

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警視庁捜査二課では中央区京橋一の一〇商工組合中央金庫(理事長豊田雅孝氏)の資金貸し出しをめぐり大がかりな贈収賄の事実があることを探知、東京地検の指揮で捜査を続け十四日までに同金庫営業部融資係品川勇(三七)=川崎市朝田町●●●●=を収賄容疑で、東京洋紙商協同組合参事兼事務長加藤文吉(四一)千代田区九段●●●=を贈賄容疑、東京製材協同組合参事高橋武治(三五)を業務上横領容疑で検挙した。同金庫は中小企業の組合を対象とする運転資金の貸し出しをしているのに、各協同組合単位に貸し出す金額は大きく、それだけに金詰りにあえぐ全国中小商工業者は各地方選出代議士を通じて働きかけ、また役人側も同金庫の幹部以下金品の収賄や饗応を受けるのは半ば公然化し、捜査線上には早くも融資あっせんをめぐり自由党某代議士、元通産次官の名も浮かんできている。

調べによれば品川は融資指定の際に都内四百八十に及ぶ各協同組合の猛烈な融資申込みのなかで特に東京洋紙商協同組合に計一千万円にのぼる融資を受けさせる便宜を与え、その謝礼として加藤から昨年春から本年八月ごろまでの間に数回にわたり数十万円の金品の収受をしたほか、都内各所の一流料亭で豪華な饗応を受けていた。なお加藤は某代議士(自由党)の元秘書であった関係から品川に巧に取り入り、洋紙商協同組合に有利な借入れに成功していた。また高橋は同金庫への働きかけの手段として豊田理事長以下幹部を箱根に招待したが、その接待費五十万円は高橋の独断で勝手に東京製材協同組合の基金から引き出し幹部以下豪遊していた。この融資獲得用のため同金庫の係員接待費として計上していた額は各組合とも数百万円に上っているといわれる。

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というわけで、41歳という年齢だけでなく、「千代田区九段●●●」という住所も完全に一致、どうやら「加藤文吉」は完全に僕の祖父であったことが明らかになった。また、代議士秘書であったという事実も、僕が知らないだけで存在したようである、ということも明らかになった。

 

新聞で判明した情報はここまでだ。

これ以上は当時を知るうちの家族に聞かないと分からない。

まずは当時小学生であったうちの親父に話を聞いてみた。

 

 

煮干の頭を取る作業を手伝いつつ、親父に話を聞く。

僕「親父さぁ、こないだネットで検索してたら……(中略)……だったんだけどさ、あれってうちのじいちゃんなの?」

 

すると親父は語りだした。

 

父「あー、あれな。そうだよ、もう秋の寒い頃に、警視庁に一週間ぐらい突然拘留されてな、新聞にも大きく載ったもんだから、知り合いの人なんかがずいぶんと心配して尋ねに来てくれたよ。当時まだ乳飲み子だったお前のおばさんを抱えてな、母さんが警視庁まで毎日差し入れを持って行ったんだ。そしたら母さん、親父に『これじゃ足らん、これは食わん』て言われて、ずいぶんつらい思いをしたって言ってたなぁ。で、その拘留中、警視庁に外語学校時代の後輩の人がいてな、『加藤さんはそんな事をする人じゃない!』って上に掛け合ってくれたらしくって、それが心に浸み入るほどうれしかった、って言ってたよ。」

 

摘み取られゆく煮干の頭。

僕「あー、やっぱりほんとだったんだ。で、そういえばさ、自由党の代議士秘書なんてやってたって新聞に書いてあったんだけど、そんなのやってたの?」

 

父「あー、やってたよ。志田義信、って衆議院議員の秘書をちょっとだけな。酒田の議員だったんだけど、あんまりそりが合わなかったみたいで、すぐに秘書は辞めて東京に出てきたみたいだな。で、その人も一期限りで議員を落選しちゃったな」

 

なるほど。

じいちゃんが短い期間ながら衆議院議員の秘書をやってたというのは、どうやら本当だったっぽい。

高校のときの政治経済のじいさんの先生が、元代議士秘書だったってんで、みんな少し尊敬の眼差しで見てたんだけど、まさか自分の祖父がやっていたなどとは思いもよらなかった。

頭の摘み取り、完了。

志田義信さんの情報は昔過ぎて、その業績も来歴も分からないが、それは重要ではない。とりあえずこれで、議事録と新聞の情報と親父の話と、全ての符号が一致したわけだ。謎は完璧に解けた。じいちゃんは贈賄の容疑で逮捕されたことがあり、代議士秘書をやっていたこともある。

 

ここで追跡は終わるかに見えたが、まだもう少しだけ話は続く。

僕は偶然、昔の実家であり、じいちゃんが住んでた家である九段の家で、新たな資料を発見した。

それは次の経緯による。

 

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私事になるが、最近九段の家、つまり僕の昔の実家で、祖母と二人暮らしをしていた叔父が急逝してしまった。

叔父は結婚しなかったので、いない子供の代わりに、甥である僕が毎週九段に帰って、遺品を少しずつ整理している。叔父が亡くなる直前まで使っていた部屋は、生前の祖父の部屋でもあったので、叔父の遺品と祖父の遺品が同時に積み重なっている部屋になっている。その部屋で遺品を整理していたら、こんな物が見つかったのだ。

無題、と書かれた冊子。

表紙に「文生」と書いてあるので、祖父のものと分かる。

中身は祖父の切り抜き帳だった。祖父は斉藤茂吉を好きだったので、切抜きの中身は主に斉藤茂吉に関する新聞記事だったが、それに混じってこんな物が記してあった。

 

祖父のメモ書きのような短歌。

ここでは読みにくいが、「監房雑詠」と題してある。

祖父が拘留中に、監房の中で詠んだもののようだった。

 

贈賄容疑の事件に関して、さすがにばあちゃんには聞きずらいな、と思ってこれまで聞かずにいた。

旦那が警視庁に拘留された思い出の話である。

差し入れに行くのにもつらい思いをしたと親父も言ってたし、触れないほうがいいと思っていた。

だが、一緒に遺品整理をしていたときに、このページを見つけてしまったので、触れないのも不自然だし、これも巡りかなと考え、思い切って聞いてみた。

 

「これ、あのときのやつだね……」とさりげなく話をふってみる。

 

(……ばあちゃん、傷付いたりしないだろうか……)

 

と、いったような、僕の心配は全く無用だった。

読んでも「はて?」となっていたので、うちのばあちゃん、全くこの事件のことを忘れていたようだった。
僕があらましを説明すると思い出して、「ああ、そんなこともあったわねえ!」と、あっけらかんとしていた。
当年87歳、年齢というのはいろいろな作用を持つようだ。

 

その後、ゆっくりと祖父の詠んだ短歌を、ばあちゃんと読み解いてみた。

組合の 為なれかしと せしわざに 我とらはれの 身とはなりぬる

智性なき 看守の声に 追わるごと 房に入りゆく 我が身悲しも

梅ぼしと つめたき汁に 端座して 今日一日の いのち伸ぶるか

秋晴れの 日曜らしも 庭先に つどふ吾子の 姿偲ばゆ

隙間洩る 夜寒の風に 寝がへれば 房内総て いねらぬごとし

釈放の 言葉の響きの 嬉しさよ 秋晴れの空 まばゆく仰ぐ

 

祖父のストレートな悲しみ、つらさ、解放された喜びがそのままに伝わってくる短歌だった。

 

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結論

その後の話は誰からも聞かないので、おそらく聴取だけ受けて、そのまま不起訴になったのではないかと思われる。
要はお中元やお歳暮に贈った物品が豪華すぎたのが、一線を越えるか越えないか、という判断だったのではないか。そしてそれは「越えない」と判断されたのだろう。

じいちゃんが死んで16年、僕も他の家族同様にじいちゃんが大好きだが、父の末子だったので、じいちゃんのことを誰よりも知らないままに別れてしまった。
もう少し大人になってからもじいちゃんに会い、話をしたかったなと思う。(そのせいか、いまでもじいちゃんの夢を見る)

 

けれどこの一件を通し、これまでに思いもよらなかったじいちゃんの一面を見ることになった。それはとても意味のあることだった。

もしも祖父が何かのはずみで起訴されていたら、僕は祖父に対して幻滅しただろうか?

答えはもちろんNOだ。

祖父が家族のために戦った戦後期の奔走に僕は感謝しなければいけないし、物事は決して有罪か無罪かの二元論では語れないものだ。

 

そんなことをあらためてじいちゃんが僕に教えてくれた、今回の追跡だった。

 

【昭和二十六年、祖父の贈賄容疑を探る・完】

 

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31歳の頃の記事。ブログで書いた記事の中で、一番好評だったもの。
今は祖母も父も、みな鬼籍に入ってしまって、九段の家も取り壊されてしまった。
ライター活動にいそしんで過ごした30代を今では懐かしく思う。