まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

鴻巣にあった叔父の家と、その相続のあれこれと、かじられた梨と灰皿と

「鴻巣警察署ですけど……」の、電話の一言でほぼ全てを察した。
残業中、スマホが職場でふるえた。
詐欺ではないことは容易にわかった。
おそらく、埼玉県鴻巣市に住んでいる独身の叔父に、身の上の何かーー最悪の場合突然死ーーがあったのだろう、と。

 

鴻巣に住んでいる叔父は、父の兄弟の末弟、兄弟の中で唯一の存命者であったが、極度の変わり者でもあった。
身長は150cm半ばもないむっくりとした風貌で、技術者として働いていた。
そして今で言う、リベラルな価値観をいち早く体現して生きていたような人だった。

 

結婚式も来ない。親戚同士で集まっても頭の下げ合いなんかしない。父親の葬儀に礼服も着ない。旧来的なニホンの価値観の全てを否定して生きてやろうとしているように、僕には見えた。

 

子供の頃は、叔父があれこれと構ってくれたことはない。
2ヶ月に1回ぐらいは帰省してくるが、大人同士で喋るか、文庫本を読むかして過ごし、一泊して帰っていく。子供が話しかけても返事をしてくれない。
子供から見たら一番絡みにくいタイプの大人だった。

 

家族に対する好き嫌いも激しかったようで、唯一仲が良かった僕の父とも人生の後半には仲違いしてしまっていた。
仲違いする前に、父に説得されて(?)買った埼玉のその一軒家に、自分の人生を埋葬するかのように、2021年、孤独に亡くなった。

 

僕は亡くなるたびに家族のことをネットで記事にしている。

祖父
昭和二十六年、祖父の贈賄容疑を探る(2009.10.15公開記事を再掲) - まさゆき研究所

父
台湾の「あの宮殿みたいなホテル」に泊まってきた :: デイリーポータルZ

真ん中の叔父(叔父1)
叔父の遺品を紹介します(デジタルリマスター版) :: デイリーポータルZ

祖母
JALのカバンが語る、45年前の海外旅行 :: デイリーポータルZ

 

でも叔父のことは何となく書き損なっていた。
とにかく後始末が大変だったのと、他の家族のようにカラッとネタにできる部分が少なかったからだ。

 

①なぜ僕に連絡が来たのか

警察が探し当てた叔父の連絡用手帳の、一番最初のページに僕の名前と電話番号が書いてあったかららしい。
おかげで僕は警察対応から喪主、相続処理の担当まですべてを請け負うことになってしまった。

なお、亡くなったのは1月末で、死因は不明。エアコンではなく灯油ストーブで暖を取っていたため、灯油が切れて寒いままだったので、死後1週間経っても損壊はほとんどなく発見に至った。
発見は近所の人からの通報らしい。姿も見ないし、電気も24時間点いたまま。新聞も溜まっている。誰が通報してくれたかはわからずじまいだった。生前の叔父の生き方を物語る感じが少しする。

②どこで葬式やるんだ問題

畢竟、結婚していないということは加藤家代々の墓に納めることになるのだが、葬式をどうするかがまず問題だった。
鴻巣市で葬式やっても誰も来れないので、加藤家の手継寺でやらざるを得ないのだが、鴻巣市の警察署の遺体安置所からどうやって都内の寺まで遺体を運ぶんだ問題が浮上する。レンタカー借りて運んだらレンタカー屋に怒られるだろうし、自分の車で運ぶのも避けたい。
結局、手継寺で葬儀の予約をし、寺に出入りの葬儀屋経由で遺体運搬業者を頼んだ。

葬儀当日は、火葬の順番待ちの都合で、朝早くから真冬の都内に入ることになった。
中野の跨線橋から行き交う中央線を眺めているさまはeastern youthの曲「東京快晴摂氏零度」そのもの、浮遊感のある現実だった。
コロナ感染流行の渦中で色々気を使ったが、葬式も納骨も無事終わった。

③家屋敷の管理と近所あいさつ

まずは家屋敷の整理をしないと何もかもがわからないので、ヒマを見つけては鴻巣市まで足を運んで整理をした。が、叔父は信じられないほど物を捨てない人だったので、せっかくの一軒家も荒廃の極みにあった。
じつは警察の方から「叔父さんはまだ六十代だったそうですが、認知症とかはなかったですか?」と聞かれたのだが、それを疑われても仕方がないレベルでゴミと埃クズの平原ができていた。2階には数年レベルで上がっていないようで、緩衝材として使えるんじゃないかみたいな厚さの埃が階段に積み重なっていた。

これを徹底的に掃除しながら、向こう三軒両隣に菓子折り持って挨拶に回った。死体変死の館とか噂を立てられたら、家屋敷の売却に支障をきたしてしまうので、丁寧に説明をした。
なんだかんだで、これに3ヶ月ぐらいはかかった。

 

④遺産の処理ならまかせなさい、のはずだったが……

僕は遺産の処理なら意外と慣れている。叔父1、祖母、父と何度も場数を踏んでいる。特に叔父1の時は郵便局で局員とケンカをし、保険屋と電話で30分大揉め、と本当に大変だった。
それに比べれば……と思って臨んだが、結局は自動車の名義変更で陸運局の職員とケンカになってしまった。
陸運局は遠方から来る甥が名義変更をする場合などを想定せずに稼働しているので、ちょっとした必要書類の伝達ミスでどれだけのロスが発生するかをわかっていない。このときは話のわかる上司が出てきてどうにかしてくれた。
ちなみに処分を進めるのは、車→現金→家屋敷の順が鉄則らしいです。

 

⑤貸金庫つかうのやめてくれ

叔父1の時も苦労したのだけど、上の世代の人は貸金庫に何かを預けるのを好むのだが、突然死された時にあれほど面倒臭いものも無い。鍵がどこにあるかもわからないし、貸金庫ルームに入るためのカードというのも、どこにあるかわからない。
相続人だと認めてもらって貸金庫を開けてもらうまで、信じられないぐらい手数がかかるめちゃくちゃに面倒臭いシステムだ。
あと株とかも、同じ証券会社に口座を作らないと相続できないという意味不明なシステムが取られているので、僕はそのためだけに野村證券に口座を作った。バブル崩壊期に東京で育ったので、「野村證券」とかそういうの散々バカにしてきたため、そこに口座を作っている自分がちょっと面白くもあった。

 

⑥家系図

子を為さずに亡くなった人の親兄弟が全員死んでいると、相続人は甥姪、つまり僕から見ると「いとこ世代全員」となる。普段から従兄弟たちとは一緒に住んで育った兄弟のような仲なので、そこに問題はなかったのだが、取得しなければいけない戸籍謄本の量がすごいことになった。
親兄弟含めて、どこかに相続する権利を持つ人間がいないかを証明する戸籍を全部揃えると、一番古い戸籍には江戸生まれの人が載ってるぐらいまでになった。


せっかくなのでこれを元に家系図を作ってみたら、A3いっぱい、「ファミリーヒストリー」撮影できるんじゃないかぐらいの物ができた。これを機に、親から聞いていた噂と合致するかを確かめたりできたので、いい機会になった。「定年後に家系図を作るおじさん」が頻発すると聞いていたが、確かに埋め始めると面白くなってくるので、その気持ちがよくわかった。
しかし僕は20年ぐらい先取りでこの趣味を極めてしまったので、ちょっと勿体無い。

 

⑦家屋敷の売却

車を名義変更して売り、預金や証券も処理を終え、遺産相続もあとは家屋敷を残すのみとなった。まずは全部僕の名義に変更したのち、何件か見積もりを取って、鴻巣市内のいい感じの不動産屋に委託して買い手を探すことにした。
不動産屋さんに「不動産売却は初めてではないようですね」と言われる。相続初心者ではない雰囲気が出てたのかもしれない。
あせってもいいことはないいので、ちょっとづつ値を下げながら買い手がつくのを待つ。そのあいだ、3ヶ月に1回ぐらいは草刈りと屋敷管理のために鴻巣まで赴いた。

一人で、秋の日差しを浴びながら縁側に座り、亡き叔父の遺した古いタバコを吸いながら刈り取った草の山を眺めているのには何とも言えない人生の情感があった。

僕はかつて2度ほど、叔父が引っ越したばかりの頃にこの鴻巣の家に遊びにきたことがある。小学校5年生の頃だっただろうか。
兄である僕の父に勧められて戸建を買ってはみたものの、明らかに叔父は持て余していた。日曜の朝に尋ねると、梨が、皮を剥かれたあと一口かじった梨が軽く干からびてコタツの上の灰皿の横に放置されていた。
僕は幼いながらも、その干からびた梨に、独身であることの哀しみのようなものを強く感じ、将来は結婚とかしたほうがいいかもなということが、心のどこかに刻まれた気がする。

それっきり僕は鴻巣の家に足を向けることはなく、そこから35年が経って、いま、叔父の亡き後のそのコタツに座り、あの時の灰皿にタバコの吸いさしを置いている。人生というものは、このように過ぎるものなのだろうか。

 

⑧さようなら鴻巣の街

叔父の死去から約2年が経過したあたりで土地の買い手がついた。
荒廃した家屋敷の部分はとりこわして更地にする契約で話がまとまった。最後の取引は、とある都市銀行の大宮支店で行われた。その日は雨で、それでもどうしても観光したく、小雨が降る氷川神社の参道を3kmぐらい延々と歩いた。なるほど、こんな大きな神社があるから「大宮」なのか!と、雨の中でも結構楽しく散歩できた。

鴻巣の街も少しだけ詳しくなった。ひなびた町の寿司屋とか、なんか人気っぽい団子屋とか、行くたびにうまい店がないかさがして食べるのが楽しみだった。一番美味しかった「次念序(じねんじょ)」というつけ麺屋さんは、それを食べることを目的にしてもいいくらいの三つ星ラーメン店だった。

 

相続の手続き的には、このあと。僕の居住地である地元の税務署におもむき、不動産の売買を通して発生した利益を確認して相続税やら所得税の精算に入るわけだが、バブル崩壊直前に新築で買った鴻巣市の家屋敷がそこから値上がりしているわけもなく、清算は無いようなもので終わった。
それよりもこの日、信じられない強風で、臨時駐車場から申請会場まで吹き飛ばされそうになった記憶が強く残っている。

思えば鴻巣も風の強いところだった。

いちど、ためしに電車で行ってみたら、駅から叔父の家までものすごい強風でびっくりしたことがあった。もうあの家に行くこともないかと思うと一抹の寂しさがある。
この記事を書くにあたってGoogleマップを見たら、その土地にはぴかぴかのソーラーパネルが載った家ができていた。買主は、高校生の娘さんがいる僕より少し年嵩のご夫婦だった。高崎線沿線で、手頃な土地を探していたらしい。
新しいご家族が、あの土地で幸せな暮らしを送ってくれることを心から願っている。

VRゴーグルで首を痛めた結果、頚椎にネジ6本打ち込むことになった話(後編)

あらすじ(詳しくはリンクを)

・右肩〜腕の痛み/痺れを感じて通院
・頚椎ヘルニアの悪化した「頚椎症性神経根症」と診断
・2年かけて4人の医師の先生に診てもらった末、意外に大がかりな手術となる「頚椎前方除圧固定術」を受けることを決定

2024年4月 四谷先生の診察(手術の1ヶ月前)

手術する前提で病院を変わったので、四谷先生との打ち合わせの焦点は「手術する/しない」ではなく、現実的な手術の日程とリスクなどについてとなる。

病変部を除去しても神経損傷はすぐに回復しないため、長い期間で回復を見ていく必要があること。手術しても10人に1〜2人ぐらいは症状の改善が無いこと。その他、気道や脊髄へのダメージのリスク、など。

「人間が人間に対して行うことなので。100%はありません」

四谷先生がクールに手術のリスクを説明していくにつれて、僕は手術に対する恐れより、こんなリスクが存在する作業を日々の業務にされている脊椎の専門医の先生方への畏敬の念のほうを強く感じるようになった。

僕も教員という職業をかなり真剣にやっているつもりだし、その重要性を自分でも信じていることが仕事のモチベーションになっているけれども、生命機能の根幹部の付近をドリルで削ったりネジを埋めたりするリスクを負い続けることに見合うモチベーションとは、いったいどこからやってくるのだろう。

説明が終わったあと「何か聞きたいことはありますか」と言われたので、思わず率直にそんな気持ちを恥ずかしげもなく喋ってしまった。
四谷先生は「ちょっと大げさに言いすぎましたかね」と少しだけ照れ笑いをされた。

 

2024年5月 入院

1ヶ月仕事を休めるように段取りをモーレツ社員ばりの勢いで進め、手術前日の朝にすべりこむように入院する。
麻酔科医の先生と面談。「前もうちでやったことあるねー」と和やかにお話。
しかし全身麻酔の手術は3回目だが、やはり緊張する。下手にあの感覚を覚えているだけによけい緊張する。

何というか、臨死体験に近い。意識がふうぅっと遠退いていきプツッと途切れる。
時間の経過の感覚は無い。
夢を見ていたような記憶も無く、すっと目が覚める。
その間にノドを切り裂いて、首の骨を削られ、ネジを埋められても気が付かないのだからすごい。全身麻酔を体験してから、人間にとって意識とは記憶とは感覚とは何なのかを深く考えるようになってしまった。

 

手術当日

朝ごはんは食べずに術着に着替え、朝イチで手術室に向かう。
前回は足の骨折だったので車椅子だったが、今回は自分の足で歩く。
ナースステーション裏のエレベーターから病院の深奥部に踏み入れる感覚がぞわっとする。

手術室に着く。静かな水面のような心持ちで、手術台の上に自分の足で乗り、寝転ぶ。酸素マスクをかぶせられ、脳波のハチマキみたいなのをつけられ、点滴の管は左手の甲に刺さる。針が太くて痛い。

サインした「手術同意書」には「執刀直前まであなたには手術を断る権利があります」と書いてあった。理論上はここで拒否することもできるのか、と不思議におかしい気持ちになる。

全身麻酔のための導入薬が左腕にジジッと染み込んでいくのが、いつも通り最後の記憶となって意識が途絶えた。

 


その間にこうなる

集中治療室(HCU)へ

すきっと目が覚める。
ゴロゴロとストレッチャーで運ばれる目の前には四谷先生と家内がいた。
4時間かかったらしい。もう昼の2時だという。ぼくは最高の睡眠が取れた朝のような爽快さでハイテンションに喋りつづけていた。麻酔の薬がなんか変な方向に効きすぎたのかもしれない。手術の顛末を簡単に聞き、そのままでHCU(ICUよりも一段階緊急度の低い集中治療室)で一晩バイタル管理をされながら過ごす。

あらかじめ分かっていたことだが、この部屋では何もすることができない。
術後すぐなのでベッドから起き上がれないし、ラジオもケータイも持ち込めない。酸素チューブほか3〜4本の管が刺さったまま天井と心電図をただ眺め、考えごとをして過ごす。

ーー何でこんな病気、なったんだろな。

ーー手術の効果、出るかな。

考えてもしょうがないことばかり思い浮かぶ。
前の骨折と違って、今回は原因が「老化」である。誰にとっても老化は予想もしなかった方向から襲いかかってきて、心の準備をさせてくれない。
でも手術&1ヶ月の入院療養で済むのだから、まだましな方かもしれない。友人や家族の幾人かは若くして癌で亡くなった。あれも老化だ。それに比べれば手術して補修できる老化なんてたいしたことない。

いや、補修できているのだろうか。

肩が猛烈に痛い。

手術中に意識の無いまま変な体勢をとりつづけていたのだろう。肩甲骨の奥の方から強い疼痛がする。手術のせいで余計悪化したのだったらどうしよう……職場にも家族にも迷惑をかけたのに……

ーーーー

……と、このときは不安でたまらなかった。
しかし術後3週の現在で、ものすごく治療の結果が出て、手術の成果をかみしめている。

このブログ記事を書いているのも、同じ手術を受ける人のこのHCUでの不安が少しでも和らげばと思ってのことだ。
僕だけの話でしかないが、この痛みは3日経つ頃には弱まり始め、退院する頃にはほとんど消えた。手術で病変部付近のバランスが不安定になったのだろう。

ーーーー

暗いことばかり考えて何時間も過ごしてもしょうがない。
首の傷口を確認するために看護師さんから手鏡を借り、部屋のようすを鏡に映して観察して、スパイ気分で部屋の構造を類推したりとか、そんなことで退屈をしのいでいた。

それも飽きたので、試しに息を止めてみた。そしたら心電図にアラートが出たので、あわてて呼吸を再開した。

代わりに何を考えたら心拍数上がるのかなと実験してみたが、大した成果は出なかった。

そうこうしているうちに20:30の消灯となり、電気が消えた。
寝付けない人が多いらしく、看護師さんのほうから睡眠導入薬を勧めてくれたので飲んだが、それでも深く眠るのは難しかった。

 

病室にもどり

翌朝、病室へ運ばれて戻る。

当初、頚椎の間に腰の骨を採取して埋める予定だったのが、四谷先生の現場判断で「このケースは人工骨でも大丈夫」となり、体の負担を軽くするため人工骨での施術となった。
(黒いマーキングだけが腰に残されていた)

それなら歩くことも翌日ぐらいには可能かなと思いきや、リハビリ担当(理学/作業療法士)が来ないと歩くことはできず、担当が来るのは土日を挟んでの2日後なので、それまでベッドで寝てて下さい、ということになった。

これで何が困るかというと、「歩いてトイレに行けない」ことだ

尿はカテーテルから出ていくので不便はないが、そうではない方が問題だ。
ごはんは3食ふつうに供されるが、体外に出すことができない。出せないのが嫌なので食べたくないのだが、すると「この患者、栄養が取れてない」ということになり、点滴を外してもらえなくなる。そうすると結局歩く自由はなくなってしまう。
というわけで、「歩きたいならウンコを48時間我慢しながら、1日3食をたべる」という結論となるため、6食分を消化管内に溜め込む羽目になった。これはつらかった。

そんなことより、痛み/痺れの回復の話をするべきだった。
首の傷口の方は驚くほど何の痛みもなかった。執刀チームが凄腕だったのだろうか。定期的に点滴される鎮痛用の麻薬増加ボタンを押すこともなく過ごすことができた。

(麻薬増加ボタンについては、7年前の入院時の記事を読んでください)

起き上がってから退院まで

しかし痺れの回復の方はかなり雲行きが怪しかった。なんか悪化した予感がするのだ。

日常動作をしていないから回復してるか分からない上に、術前にはなかった痺れや痛みがかなり出ていた。特に不安になったのは、箸やフォークが痺れで持てなくなったことと、歯磨きで右腕がめちゃくちゃに痺れる症状が発生したことだった。「あれ、自分もしかして手術の成果が出ない1〜2割の方だった?」と手術後2〜3日は不安でたまらなかった。
(これも退院し、日常に慣れた環境に戻ってからはすすっと痺れも出ないようになり、術後3週間の今は全て普通にこなせるようになった)

 

月曜になりリハビリさんも来て、歩く練習が始まった。
と言っても腰骨にはメスを入れてないし、まだ40代の男子なので、全く問題なく歩くことができる。
術前の麻酔科医の先生との面談では「むしろ首より腰の方が痛くて歩くのが大変だと思うよ」と言われていたので、その腰の傷が無いというのは大変助かった。
あちこちのインターネットで「歩けるようになったら退院」と書いてあったが、もう歩けてしまったので、なんか早くに退院できそうな予感がしてきた。

そしてその予感通り、術後1週間でのレントゲン・CT・血液に異常がなかったので、早々の退院となった。もちろん自宅で安静にしていなければならないのだが、病室で診るほどでも無いだろうことなのだろう。

 

2024年6月 (手術の3週後まで)

そして術後3週目までの回復の様子。

手術前の状態なのだが、右手の人差し指と中指に軽い感覚麻痺が出ていた。この症状の悪化させたのは病院での検査である。

レントゲンを撮るときの背筋を伸ばした姿勢が悪い。5秒、10秒単位で痺れがどんどんゲリラ雷雨のように悪化していくので、技師さんに「早く、早く撮ってください!」と顔をしかめてお願いすることもあった。

さらに悪いのはMRIである。
あのときに使うマクラの高さと硬さが、負のツボ治療みたいな感じで神経根にダメージを与えてくる。高さを加減してもらったりもしたが、やっぱりだめで、撮影終了後、右上肢全体が強烈な麻痺状態になることもあった。

しかしこの麻痺が術後3週目あたりから順調に抜けてきて、手術の効果を実感している。
また術後2週間でレントゲン検査を受けたがその姿勢で痺れを感じることは無かったので、ああ、おれは良くなってるんだなぁ、と実感できた。
これ以外にも「ひげ剃りのとき」「おりたたみ自転車に乗る」など、必ずこの姿勢で強く痺れるんだよな、と感じていた各シーンで痺れを感じることが減ってきたので、確実に手術の成果は出ている。

痺れがゼロになったことはないのだが、体感的に、術前が10だとすれば、4〜3ぐらいまで減ってきている。(手術直後、いったん12ぐらいまで増えてあせったが)

まあとにかく、良くなっている。

 

傷跡とプレートによる圧迫

手術で避けられないのは傷跡だ。

僕は40代男性なので傷跡なんかどうでもいいのだが、女性はいくつになっても首にこんな大きな傷跡ができるのは嫌かもしれない。でも先生が首のシワに沿って切ってくれるので、思ったより目立たない。

それよりも引きつって動かなく感覚のほうが僕は気になる。
首の皮膚の柔らかな感じがなくなり、ぐいっと首をそらすことができない。
不便が出るほどではないが、まだ違和感に慣れない。

もう一つ、気道と食道を圧迫する感じのことだ。
プレートを埋めた厚みの分と、手術による腫れの分で、6〜7ミリだがノドの前方が押される形になる。これはそれぞれ「就寝時の呼吸しずらさ/声の出しにくさ」と「食物の飲み込みにくさ」として現れてきたが、慣れの問題かなと思える。

おやつに買い食いしていたナッツがのどに引っかかるんですよねー、と病室でリハビリさんにこぼしたら、「普通、病室でこんな固いもの食べてる人いないから!」と大笑いされた。

 

まとめ

最低でも術後4週までは骨が繋がっておらず安静生活なので、ゆっくりとブログを書いてみた。

発症から手術まで2年以上かけてしまったので、神経にずいぶんダメージを負わせてしまった。本当の回復度を見るには、半年、1年見ないといけないのだが、3週でもすでに手術の効果をかなり実感できている。まだまだ期待が持てそうだ。

何より、「自転車とウォーキングが再びできること」「これ以上悪くならないこと」がはっきりと手元に戻ってきたのが嬉しい。昔のように、やりたいことを指折り数える気持ちを再びとり戻すことができている。もう半年ほどしたら、回復の度合いをあらためて報告したいし、昔のように面白いブログ記事を書けることにも挑戦していきたい。

この記事が、同じ症状、同じ手術で悩んでいる人にとって、少しでも参考になればいいと思う。

VRゴーグルで首を痛めた結果、頚椎にネジ6本打ち込むことになった話(前編)

概要

VRゴーグルとロードバイクが引き金となって「頚椎症性神経根症」を発症。
右肩から指先までの痺れや麻痺が続く。
4人の医師の先生に診てもらった末、発症から2年3ヶ月後に骨棘除去&人工骨埋設&頚椎プレート固定をする「頚椎前方除圧固定術」を施術されることになった。
その顛末の話。

 

2022年2月 発症(手術の2年3ヶ月前)

原因は二つある。

VRゴーグルのボクシングゲームに夢中になりすぎたこと、もう一つはロードバイクでの通勤にいそしんでいたことだ。

もちろんこの二つをやっていても発症しない人は無数にいるので、もっと大元をさかのぼれば「首の形の遺伝的要因」ということになるのだが、それでもはっきりと違和感を感じた日のことは覚えているので記録しておこう。

 

その冬、僕はダイエットの一環としてVRゴーグルをレンタルで借り、ボクシングゲームに挑戦していた。
楽しくボクササイズする「FIT BOXING」と違い、3D空間でバイブレーションの刺激と共に相手が迫ってくるVRのゲームはリアリティが段違いで夢中にさせられたが、プレイ後、妙な痛みが右肩に残った。

四十肩になったときの痛みに近かったので、「アッ、これは再発したかな?」と思い、じきに治るだろうと気楽に構えていた。

 

2022年9月 受診(手術の1年7ヶ月前)

肩の痛みは、床に直座りすると痛むものの、生活に支障が出るほどでもなかった。

さて、僕はこの2年ほど前からロードバイクを始めていて、春/秋には片道17kmの職場まで通勤につかうこともあった。
この日も仕事が終わってロードで帰路につき、颯爽と飛ばしていたのだが、途中から右腕にこれまでにない電流が地味に流れるような痺れを感じたのが気になった。帰宅後もこの痺れがだらだらと続いた。

特定の姿勢をとると必ず出る。ロードバイク以外にも、背もたれのない椅子に座る、風呂で髭を剃る、などの動きをすると必ず痺れる。

特に困ったのはジョギングをすると痺れる、ということだった。ジョギングは30年来の趣味で、僕の人生はこれを軸にして仕事/趣味/生活が成り立っていると言ってもいいぐらいだ。

ちょうどテニス肘っぽい症状もあったので、合わせて近所の整形外科に行き、症状を説明すると「上を向いてみて」言われた。
言う通りに向けると痛む。
即座に「たぶん頚椎ヘルニアだね」と診断される。
さすが医師(一人目なので「一ノ瀬先生」としましょう)、症状の経緯と簡単な診察でああっと言う間に病名を特定してしまう。

「しばらく経つと神経の方も慣れてきたりして大体は治まるからおとなしくしていなさい」と言われる。

 

2023年2月 急激な悪化(手術の1年3ヶ月前)

僕は言われた通り半年ほどおとなしくしていた。
病状はテニス肘と共にだいぶ治まっていき、そろそろ運動を再開してもいいかなと思えた。こんなブログ記事も書いている。

じつはこの記事を書いて運動を再開して早々に、腕の痺れが再び悪化した。

歩くだけで痺れる。寝てても痺れる。ソファで寝ころぶ以外の全ての姿勢で痺れる。
悪い時は手の甲の感覚にほんのり麻痺が出る。ジョギングどころの騒ぎではない。

もうこれはアカンな、と感じた僕は、このころ足首骨折で世話になった医師の先生に、頚椎に詳しい方への紹介をお願いした。
そして受け持ってもらえることになったのが二宮先生だ。(二人目なので「二宮」です)

 

二宮先生との1年間

二宮先生は状況を聞き、つらいのはわかるがしばらくは保存療法(つまり安静を保つ)で対応しましょう、と勧めてくださる。
病変部はそれほど大きくはないが、靴の中の小石と同じで、大きさに関わらず痛んだり痛まなかったりするんです、しばらく待ってみましょう、と。

第一、手術をするとなると結構大がかりになるという。
最低でも2週間以上は仕事を休むことになるし、重苦しい感じがずーんと残ることも多い、と。

というわけで約1年間、月に1回の頻度で通って、処方された薬を真面目に飲み続けた。

通院を始めたときのひどい症状は時間と共に少し軽減されたものの、本質的な症状が良くなる感覚はほとんど無かった。ブロック注射を施してもらったこともあったが、特に効果を感じられなかった。
夏になり、秋になり、季節が変わる度に「そろそろ良くなってるかな?」と期待してジョギングに挑戦してみるも、200mぐらいで痺れが出てあきらめるの繰り返しだった。

悪くもならないが良くもならない。運動は何もできない。趣味の登山も置いてけぼりである。
この1年の僕のブログを見て「この人、落語ばっかり行ってるな」と思った方もいるかもしれないが、現実的に、痺れがつらくて落語鑑賞以外に何もできなかったというのはあった。

ジョギングに勤しんでいた頃の体型は崩れはじめ、人間ドックの数値も悪化し、生活の艶はどんどん失われていった。
そして2023年末、大掃除をしていたところ症状が再び突然に悪化した。
強い痺れが高頻度で出るようになり、僕はしびれっぱなしの2024年正月を迎えることとなった。

年明け、二宮先生はブロック注射を打ってくれたが、やはり改善した感じはなかった。
これはとうとう、本格的に手術を検討するべき時期かなというタイミングで、二宮先生が年度末をもって別の病院に移られるとのことでだったので、手術をする前提で僕の自宅近くの別の病院を紹介していただいた。

担当は3人目、三上先生に移る。

 

2024年3月(手術の2ヶ月前)

三上先生の病院で、脊髄に造影剤を入れてCT検査を行う。
手術の是非を検討するためには、より仔細に脊髄と頚椎の状況がわかるこの検査が必須なのだと言う。

だがこの検査がめっちゃ怖い。

かつて二度ほど全身麻酔の手術を体験したことがある僕だが、見ることのできない背面側から、脊髄の中に注射をされるというのは、また別格の恐ろしさがある。
三上先生に「すごい汗かいてますね」と笑われながら検査を受ける。

ちなみに検査は1泊となる。脊髄に注射すると急に気分が悪くなったりすることがあるのだそうだ。

そして検査の結果が下の写真だ。

第5頚椎〜第6頚椎のあいだの椎間板が痛みきって、骨が変形し「骨棘」となって右の神経根を圧迫している。第6〜7の間にもヘルニアがある、と。
年齢の平均より、だいぶ劣化が進んでいるらしい。

「ああー、この歳なのにこんな骨に……」と、コメントへわずかに憐憫のニュアンスが見え隠れする。

そして「首の骨がちょっと後弯気味ですね」とも。

 

思い起こせば、首は昔から弱点だった

実はこれは前に別の医師に言われたことがある。
あれは結婚してすぐなので、30歳過ぎの頃だろうか。
風呂上がりに力いっぱい首を振りながらタオルで髪を拭いていたら、突然、ありえない激痛に首が襲われ、1ミリと動けなくなり、這うようにして家族の車で救急に運ばれたことがあった。

そしてレントゲンを撮って医師に言われたのが「あなたは首の骨の湾曲が弱いタイプ、いわゆる『ストレートネック』だから、痛めやすいよ、気をつけなさい」と。

首の骨が湾曲をうまく保っていないと、何かと痛めやすいらしいのだ。
思えばかなり前から、左を見上げたときだけ首が痛かったので、ずっとヘルニアではあったのかもしれない。

にも関わらず、ヘルメットみたいなのをかぶってボクシングごっこしたり、首を後ろにそらして自転車漕ぎ続けたりと、やっちゃいけないことをやって、とどめを刺した形になったのだろう。
40代にもなったのだし、もう少し思慮深く運動の種類を選ぶべきだったのかもしれない。

見返すと、受けた遺伝子検査にも書かれていた

そしてこの首の形ゆえ、僕はちょっと衝撃的なことを告げられることになる。

「この前弯の弱い形だと『頚椎前方除圧固定術』が術式となります。気道にダメージが生じた場合に備えて、集中治療室のある大病院じゃないと手術ができないのです」と。

 

低侵襲? What!

実は僕は手術はもっと軽く済むものだと思っていた。
僕も僕なりにまともな本を買って勉強してみたりして、いろいろな術式があることを知ってはいた。(↓この本)

僕の症状「神経根症」の場合、筋力低下が起こらなければ手術の必要はないことも多いこと。手術には最近は低侵襲型の手術もあり、短い入院期間で済ますこともできること。

我慢して仕事を続けることもできなくはないし、日常の暮らしもできる。
しかし、ジョギングも登山もできず、健康指標は悪化していく。さらに急激な悪化がまた来るかもしれないと不安なまま暮らすのは避けたかった。

だから症状の軽いうちに手術を受ければ、手術も軽くで済むだろう。そう軽く考えていた。

しかし医師から伝えられたのは、侵襲の度合いの大きい「頚椎前方除圧固定術」という、最低でも1ヶ月は仕事を休まなければならない最も大がかりな術式だった。
なんでも僕のように前弯が弱いタイプの人は、後方から手術しても治療成績が悪いのだそうだ。はっきりとした治療成績を望むなら、ガッと首の全面を切り。気道をかき分けて頚椎に到達し、病変部を削ったあと人工骨を埋め、プレートとネジで首の骨を固定する必要があるのだという。
しかも僕の場合、第5-6間・第6-7間の2箇所を同時にやらないといけないので時間がかかり、気道への負担も大きくなるのでどうしても集中治療室を備えた大病院になる、と。

それまで「低侵襲の術式でできたらイイネー」と甘く考えていた僕と家内は、三上先生の説明を聞いてしばし言葉を失った。
唾を飲み込む音だけが病室に響くような沈黙だった。

 

5日ほど考える猶予があり、僕もいろいろ考えた。
仕事を1ヶ月休むことなんてそもそもできるのだろうか。以前のプレートを埋める手術で術後感染を起こしたので、それを思い出すと怖い気持ちがある。
二宮先生と同じく、三上先生も最初は保存療法を勧めてくれた。医師から見たら手術のリスクを取るほどの状態ではないのかもしれない。

でも何度か考えても、僕には手術を選ぶ方が賢明な選択肢に思えた。

ここ2年の悪化ぶりを思い出すと、どうしても自然治癒する見込みは無い気がする。もう1年ジョギングも登山も我慢して良くならなかったら、大切な40代後半を1年捨ててしまうことになる。

また、50代、60代になってさらに悪化してから手術に臨むより、45歳の今のうちにせめて悪化を食い止めておくほうが賢いように思えた。

というわけで僕は「手術する」の選択肢をやや迷いつつも選び、三上先生に大病院への紹介をお願いすることにした。

 

masayukilab.hatenablog.jp

 

古久保-徳永研究室のこと

先日、僕の恩師である古久保-徳永 克男先生の退官記念パーティーが開かれた。

 

実はコロナ流行直前に先生は退官されているので、4年越しの念願が叶っての開催となる。先生も元気に喜んでくださって、本当にいいパーティーとなった。

僕は卒研生として1年間だけの在籍だったのだけど、今の自分と切り離すことのできない大切な示唆を得た時期だったように思う。

その頃のことを書き残したい。

 

古久保研(Lab.KFT:Katsuo Furukubo-Tokunaga)とは

古久保-徳永 克男先生は、ショウジョウバエの神経発生学を専門とされている。

スイスにある大学でヴァルター・ゲーリングという世界的に有名な生物学者に師事したのち、僕の母校である筑波大学に研究室を開いた。

ゲーリング博士は、今や高校の教科書にも載っている「ホメオボックス」を発見した伝説的な生物学者である。大師匠が世界的な著名人というのは、頭ゆるゆるの生物学生だった僕に不思議な高揚感を与えてくれた。

 

そんなスイス帰りの古久保先生からそよそよと漂うソフィスティケーテッドされた風は、一味違う雰囲気を当時の学部内に吹き込んでいた。

生物学の持つちょっと泥臭いイメージとは全く無縁の、すっきりとしたラボの中にはMacintoshがたたずみ、先生はメールソフトのEudoraをドイツ語読みで「オイドラ」と呼んだ。

先生のオフィスには共焦点レーザー顕微鏡で撮影された画像がシンプルモダンに飾られており、そこで開かれる週に1回のセミナーのときにはラボメンバーの中央にハンドドリップのコーヒーに満ちたサーバーが涼しげに置かれた。

ちょっと記憶の改変もあるかもしれないが、とにかく上質な空間であったことは確実だ。

 

なんで私が古久保研に?

そんな洗練された研究室に、何で僕のようなトリあたま学生が迷い込んでしまったのか今でも不思議な気持ちになることがある。

大学3年生当時、僕は生物学との倦怠期で、すっかり文学や教育学の方が面白くなっており、どのラボを見ても研究に全く興味が持てない閉塞した時期だった。

系統分類学を学ぼうとは思ったのだが、狭い領域の未記載種や未詳の動物群を研究することに興味が持てず、さてさてー……と思いながらふと目を向けた古久保研の研究内容はたいへんにエキサイティングだった。

脊椎動物と無脊椎動物の遺伝子の共通性に目を向けつつ、脳や神経、学習に対する遺伝子の影響まで視野に入れている。広い視点に立つその研究的な鮮やかさは、枯れかけた理学への興味にふたたび火を灯してくれるような科学的冒険性に満ちていた。

しかし僕は4年生になる前に教員になることを決意してしまったので、深い研究生活に入ることはなかったが、先輩たちの研究発表を毎回興味深く聞けたので、間違いなく最善の選択をできたと思っている。

 

日雇い的研究生活

院生時代も含めて、僕の学生生活の最大の反省点は、自分での研究テーマ設定がからっきしできなかったことである。

研究室に所属するも、基礎的な知識が全く不足している僕を見て「加藤君は勉強が足りない……」と嘆息しながらも、先生は研究テーマらしきものを与えてくれた。スクリーニングという、まあとにかく面白そうな挙動をする遺伝子が無いか、ひたすらにハエの卵を染色して観察し、探しまくるという、土方的な作業である。

ラボに入れば自然と手持ちの文献とか増えるのかしら?と思っていたのと裏腹に、1年間ひたすらハエの卵を染め続けた僕の本棚には何一つ文献は増えなかった。そのかわり、ショウジョウバエの飼育ビンを洗ったり、エサビンを作ったりするとアルバイトのこづかいがもらえたので、それは一生懸命やった。

退官パーティーで先生は「まあ加藤君は、真面目にやってたよね」と、当時のことを回顧してくださった。確かに半熟卵のようにぐでっとしていた3年生の頃と打って変わって、毎日せっせと研究室に通い、先輩に可愛がってもらいながら暮らせていたので、あれはテーマと仕事を与えてくれた先生のおかげだったと思っている。

 

魅力的なメンバー

僕は大学院からは教育学に専攻を変え、理学の道を離れたのだけれど、何のかんので話を聞いてくれる先輩がいる古久保研究室(Lab.KFT)に顔を出すことがきわめて多かった。

Mr.古久保研といって誰もが認めるのが(それは古久保先生ご本人なのではないかというツッコミはさておき)、いまは国立遺伝研の広報をされている来栖さんである。

www.nig.ac.jp

兄貴分肌の来栖さんから見ても、いじり回しやすい後輩が入ってきたのは面白かったらしく、あれこれとよく遊んでくれた。しょうもない僕にびしっと言ってくれることも多々あり、「お前は年上の人が自分を助けてくれて当然と思いすぎてるんだよ!」と言ってもらえたときは、自分の至らない側面をハッと自覚できたのを鮮明に覚えている。

その他後輩でも、さっと検索しやすいところだと、諸般の事情でテーマは生殖細胞ながらも同じ部屋にいた林さん(現・筑波大学助教)、いまは国土交通省で活躍する戸谷さん、また古久保研の後の時代においてキーパーソンになった本庄さんなんかがいて、学生らしく遊びながら楽しく過ごすことができていた。

朝日新聞デジタル:港湾系70事務所で初の女性所長 - 山口 - 地域

林 誠 (Makoto Hayashi) - ショウジョウバエ始原生殖細胞における遺伝子量補償の欠如による生殖系列の性決定機構 - 講演・口頭発表等 - researchmap

ショウジョウバエを使って私たちの痛みの謎に迫る ~痛覚神経機能に重要な遺伝子を多数発見~(2016.06) – COTRE(コトリ)|COmmunity of Tsukuba REsearchers

 

古久保先生は、ご自身の海外研究生活を振り返って「パーティーをしているか研究をしているかのような生活だった。そして素晴らしい成果はどんどん出た」と思い返されていた。

いい成果は、まずみんなが居たくなるような場から、という哲学を僕も身に沁みて学ばせてもらったように思う。

 

「うまくザイルは伸びるか」

古久保先生は登山が趣味で、山のことを時折話される。山岳装備で雪の中にいるときの写真を見せてもらったこともある。(そして滑落して死にかかったこともある、と言っていたような気がするが、ここは記憶があやふや)

先生は物静かでクール、村上春樹の小説の主人公が飛び出してきて目の前にいるような雰囲気の方だが、退官パーティーではいろいろと思いを語ってくださった。

学生だった頃、登山のチームを組む際に、各々の技量もさることながら、チームのメンバーが普段から飲みに行き、コミュニケーションを取れているかが大きなファクターとなるのだという。そういうところがうまくいかないと、いざというときに「うまくザイルが伸びない」のだと。

先生はチームワークやコミュニケーションのことをあまり口に出さないイメージだったので、OB/OGはちょっと意外だと思うと同時に、穏やかな眼差しでラボの学生を見てくださっていたことに胸が熱くなった。「うまくザイルが伸びない」。先生らしい、深みのある言い方が心に残った。

 

 

パーティーでは、多くのOB/OGの活躍を聞くことができて、大きな刺激になった。

最近ぼくはミドルエイジ・クライシスそのもので、人生も仕事も折り返し地点をむかえた自分を受け止めきれていなかったのだが、それぞれの場、新しい場で活躍するメンバーの話を聞いて、再び奮い立つ気持ちを手にすることができた。

人生が吹き溜まったときに、いつでも風通しの良い窓を開けてくれるLab.KFTに所属できたことは、僕の人生において欠かすことのできないピースだったと思っている。

山田が死んで、もう4年になるのだな

この時期になると亡くなったあの人を思い出す、というのは誰しもあると思うが、僕にとって正月という季節は、4年前に亡くなった山田のことを思い出す季節だ。

 

山田祐資(やまだ・ゆうすけ)は大学の1つ下の後輩、2019年1月6日に難治性のがんが寛解せずに38歳でこの世を去った。常にシニカルでコミカルで酔狂を気取る彼は、彼らしいスタイルを保ったまま、自分の死生をしっかり見つめながらこの世を去っていった。

 


2017年4月18日 NHK EテレハートネットTV「がんと共に歩む力を」より

 

その飄々とした姿は全くもって「山田らしく」、不自然なところは無いかのように僕の目に映っていたのだが、あれから4年経ち、一つの言葉をきっかけとして彼の胸中にまた思いを巡らせている。

 

『“がん”になったと言うと、哀れみの目で見られる』

これは、別のがん患者の方がこの記事で語っていた言葉だ。

がんになっても... | 生き方 | NHK生活情報ブログ:NHK

山田が末期のがんだと知ったとき、僕が彼に対して哀れみの目というか、その種類の感情を全く持たなかったと言えば、うそになる。
いつでも「ハッハッハッ」と笑い飛ばしてる彼のことを思い出すと、「山田が……あの山田が……?」と何か悪いジョークを聞かされている気持ちが先立ったのだが、それでも知らせが嘘ではないとわかると、彼の背負った定めを想い、数%はそういう気持ちを持った。

 

しかし、2017年11月、大学の仲間で囲んで集まったときの山田は、驚くほど元々の彼から一切のキャラぶれが無い、哀れみという感情など微塵も感じさせる余地がないほどにいつもの山田だった。



加藤「え、山田、会社はやめてないんだ」
山田「は?あたりまえですよ。 1000分の1ぐらいの確率でここから俺のガンが治ったとしたら、そんときウチの家族はどうやって生活したらいいんスか」

こんな調子である。
体重もなんならハートネットTVに出たときから、少し太ってすらいる。

相も変わらずえらそうなのでそこを厳しくツッコむと「ちょっとー、こう見えても重病人なんだからちょっとは優しくしてくださいよ」と言って、ハハッと笑う。
みんなが「山田だ……」「ああ、山田だなあ……」という安心感とともに彼との再会を楽しみ、なんなら、そのまま1000分の1の確率が起きるんじゃないかなという雰囲気で会を閉じることができた。

 

がんになって以来、山田はみんなが驚くぐらい精力的にあれこれ活動をしていた。

最初に載せたNHKへの出演もその一つだ。

がんと共に歩む力を | NHK ハートネットTV

ここでも山田はいつもの山田で、「末期がんになってこんなに泰然としてる人、いる?」と視聴者の心に存在を深く刻んだのではないだろうか。

これ以外にも大学の先輩に誘われて論文の共著に参加したり、

がんに関する学会や団体でどんどんプレゼンしに行ったりと、おいおい病人だろ?と突っ込みたくなるほどアクティブに、誰にも真似できないレベルでがん患者としての活躍ぶりを見せていた。
しかもこんな活動の傍ら、海外に行ったりXJAPANのライブに行ったりしているのである。Facebookに残るその軌跡が惜しくも友人向け公開なのだが、いつか書籍化されてもいいくらいだ。

 

しかし1000分の1の確率は起こらず、標準治療を全て終えて緩和ケアに移った彼は、2018年の年末に「セデーションに入ります」とFacebookに書き残し、みずからの意識をこの世から消し去った。
※セデーション:意識の段階を落とす緩和治療

これまで饒舌にFacebookで自らの治療や活動について語ってきた彼を思うと、この投稿はあまりに短い。

彼の真意はわからない。たとえ聞けたとしても「え、真意なんてないですよ」とか言うタイプの奴である。それでも僕は、彼が心の根底で「長々書いたら哀れっぽくなるじゃないスか」と思っていたのではないかと思っている。

 

1月になり世を去った彼は、葬式に来ていた僕らに向けて自筆の弔辞を用意していた。

「普段より『態度がエラそう』と言われている僕ですが、皆様より先に旅立ちまして、ここにいる誰よりも少し先輩となったわけですから、今回は少しだけエラそうに言わせていただきます!」というキラーフレーズで葬儀に笑いを巻き起こした彼は、最後までひとつも僕らに哀れみを感じさせるスキを与えなかった。

いつかは誰にでも死は訪れる。それがちょっと早かった人を哀れに思うことなんて無いのだ。

それでも弔辞で「娘たちはまだ幼いので、ぼくのことを忘れないように、成長に応じて何度かぼくのことを話してやってください」と言い残したような、彼がたまに少〜しだけ見せる弱みが、皆を惹きつけるポイントでもあったのだと思う。

 

あれから4年、娘さんたちは少しでも大きくなったはずなので、あのときの山田の依頼を果たすためにこのブログを書いた。
僕の記憶に残る山田の言動が少しでも、お父さんに思いを致す手がかりになればいいと思う

足首骨折・入院記録⑥最終回 どこまで運動ができるか

〜あらすじ3行〜
・2017年3月、雪山で滑落して、右足首を脱臼骨折
・手術してプレートを埋め込むも、1ヶ月半でプレートが細菌感染
・緊急手術をおこなったのち、17日の入院を経て社会復帰

 

そして5年後の今、前からやっていた運動で、復帰することができたのは、

・軽いジョギング
・登山

この二つである。

2019年に登った尾瀬の至仏山

複雑でランダムな動きがないものは、なんとかなるようである。
足首自体はちょっとジンジンしても、深く痛むことは無い。

 

いちばんダメなのは「サッカー」だった。

近所の小学生や幼稚園児と遊びでやるようなものでも、ランダムな体重移動が悪いのだろう、翌日になると骨に刺し込むような痛みが出るようになった。
「スポーツ鬼ごっこ」という地域活動に回復したら参加してよ、と昔からの友達に誘われていたのだが、そんな高度な瞬発体重移動に耐えられる気がせず、断念せざるを得なかった。

 

長く趣味としていた「マラソンのレース」にも挑戦してみた。

退院してから1〜2年はジョギングするとダイレクトに痛む感じが強く、定期検診でも結果が良く無かったので出走は控えていたのだが、3年後の2020年、そろそろ走れるかもしれないという感覚があり、ハーフマラソンにエントリーした。

本番の2ヶ月前ぐらいから、出走に向けた練習を重ねた。
スピードを上げると明らかに痛むので、悪化を防ぐためにトレーニング後は氷の入ったバケツで足首ごと冷やし、湿布を巻いて寝るなどの対策も行った。

 

結果、無事に完走することができた。
タイムは2時間3分ぐらいだったと思う。

骨折した時はもうレースは二度と走れないと思っていたので、レースにエントリーし走り切ることで、過去の自分とリハビリで悩んでいる人に「大丈夫、走れるよ」と伝えたい!、という気持ちで頑張った。

しかしそれからしばらく受傷部は痛く、直後の定期検診で「順調に悪化してるね」と主治医の先生に申し渡されたので、レースに出るような練習はこれを最後にやめることにした。

それでも、骨折を乗り越えてレースに一度でも出ることができたので後悔は無い。

 

結果、主治医のおすすめと僕の嗜好がちょうど重なった到達地点は「自転車」である。
足首への負担も少なく、ちょうどいいリハビリにもなる。
僕自身も持久系・移動系の運動の方が好きなので、割と無理なく取り組める。
ハーフマラソンに出る少し前からロードバイクを始め、それほどの頻度でも無いが楽しむことができている。

いつかもう一度やってみたかった「空手」は到底できそうになくなってしまったのは残念だったが、かわりにニンテンドーSwitchの「フィットボクシング」を適当にやってなんとか楽しんでいる。

なお、スポーツでは無いが、ダメになってしまったものに「ビール」がある。
他の酒に比べて、飲むと明確に関節がむくむので、缶2本ぐらい飲むと翌朝足が熱く腫れる。最悪の場合、距骨の炎症が悪化して歩けなくなる。

というわけで骨折を機に「ビール」を大幅に減らし「自転車」を始めるようになったので、100歳ぐらいまで生きてしまったりするんではないかと、いい転機になった気さえしてしまう。

とうとうおれも宝塚を見に行くのか

「宝塚」は文化趣味の中でも、もっとも男女間の嗜好差が激しいものかもしれない。

僕も宝塚出身女優は何人か知っていても、舞台自体を見に行くことについては、機会のニアミスを繰り返し、結局一度も無かった。興味の度合いは、その程度である。

しかし、このたびとうとう自分でチケットを予約・購入して見に行くことになろうとしている。好きな後輩の小説が原作となり、星組公演で舞台化されるからだ。

 

 

並木陽、は学生時代の文芸サークルの後輩だ。

入学したての18歳の頃から、本格派の歴史小説を続々と書き上げるすごい人材で、とんでもないのが入部してきたなと一撃でファンになった。
筆名も当時から一貫しており、作家としてのスタンスがすでに定まっていたのを実感する。


当時サークルで発行されていた同人誌より

 

ていねいな取材に基づいたリアルな叙述が彼女の作風で、店の名前や小道具にひとつ至るまで精密に描くことで、その時代に生きているかのような感覚に浸らせてくれる。途方もない熱意と愛情がなければ、こういう作品は生まれないだろう。

彼女はその後も同人活動を通して創作を続け、2017年には同人作品『斜陽の国のルスダン』がNHK-FM「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化されるという大きな成果を挙げる至った。

僕はミュージックスクエア〜青春アドベンチャーの流れを愛聴していた高校生だったので、この枠に知己の作品がオンエアされるというのは、人生のイベントとも言えるほどうれしい出来事であった。

そして驚くことに、並木さんはその後毎年たて続けに青春アドベンチャー枠で作品を発表し続ける。

  • 2018年『暁のハルモニア』(2週連続)
  • 2019年『紺碧のアルカディア』(2週連続)
  • 2020年『悠久のアンダルス』(2週連続)
  • 2021年『1848』(3週連続)
  • 2022年『軽業師タチアナと大帝の娘』(3週連続)

ウィキペディアを見ると、書き下ろし作品で3週連続なんてやっているのは並木さんだけなのですごい胆力だなと驚嘆する。

『タチアナ』のオンエアは先週終わったばかりで、今年も僕は至福の3週間を過ごし、いつもなら翌年の作品オンエアを心安く待ち受けるところなのだが、今年はルスダン改め『ディミトリ』の宝塚公演が待ち受けている。

行くのか……とうとうおれも宝塚に行くのか……

 

公演を前にして、原作『斜陽の国のルスダン』が商業出版へと切り替わるらしい。

 

まずはそれを購入し、心を落ち着けようと思う。