まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

足首骨折・入院記録⑥最終回 どこまで運動ができるか

〜あらすじ3行〜
・雪山で滑落して、右足首を脱臼骨折
・手術してプレートを埋め込むも、1ヶ月半でプレートが細菌感染
・緊急手術をおこなったのち、17日の入院を経て社会復帰

 

そして6年後の今、前からやっていた運動で、復帰することができたのは、

・軽いジョギング
・登山

この二つである。

2019年に登った尾瀬至仏山

複雑でランダムな動きがないものは、なんとかなるようである。
足首自体はちょっとジンジンしても、深く痛むことは無い。

 

いちばんダメなのは「サッカー」だった。

近所の小学生や幼稚園児と遊びでやるようなものでも、ランダムな体重移動が悪いのだろう、翌日になると骨に刺し込むような痛みが出るようになった。
「スポーツ鬼ごっこ」という地域活動に回復したら参加してよ、と昔からの友達に誘われていたのだが、そんな高度な瞬発体重移動に耐えられる気がせず、断念せざるを得なかった。

 

長く趣味としていた「マラソンのレース」にも挑戦してみた。

退院してから1〜2年はジョギングするとダイレクトに痛む感じが強く、定期検診でも結果が良く無かったので出走は控えていたのだが、3年後の2020年、そろそろ走れるかもしれないという感覚があり、ハーフマラソンにエントリーした。

本番の2ヶ月前ぐらいから、出走に向けた練習を重ねた。
スピードを上げると明らかに痛むので、悪化を防ぐためにトレーニング後は氷の入ったバケツで足首ごと冷やし、湿布を巻いて寝るなどの対策も行った。

 

結果、無事に完走することができた。
タイムは2時間3分ぐらいだったと思う。

骨折した時はもうレースは二度と走れないと思っていたので、レースにエントリーし走り切ることで、過去の自分とリハビリで悩んでいる人に「大丈夫、走れるよ」と伝えたい!、という気持ちで頑張った。

しかしそれからしばらく受傷部は痛く、直後の定期検診で「順調に悪化してるね」と主治医の先生に申し渡されたので、レースに出るような練習はこれを最後にやめることにした。

それでも、骨折を乗り越えてレースに一度でも出ることができたので後悔は無い。

 

結果、主治医のおすすめと僕の嗜好がちょうど重なった到達地点は「自転車」である。
足首への負担も少なく、ちょうどいいリハビリにもなる。
僕自身も持久系・移動系の運動の方が好きなので、割と無理なく取り組める。
ハーフマラソンに出る少し前からロードバイクを始め、それほどの頻度でも無いが楽しむことができている。

いつかもう一度やってみたかった「空手」は到底できそうになくなってしまったのは残念だったが、かわりにニンテンドーSwitchの「フィットボクシング」を適当にやってなんとか楽しんでいる。

なお、スポーツでは無いが、ダメになってしまったものに「ビール」がある。
他の酒に比べて、飲むと明確に関節がむくむので、缶2本ぐらい飲むと翌朝足が熱く腫れる。最悪の場合、距骨の炎症が悪化して歩けなくなる。

というわけで骨折を機に「ビール」を大幅に減らし「自転車」を始めるようになったので、100歳ぐらいまで生きてしまったりするんではないかと、いい転機になった気さえしてしまう。

とうとうおれも宝塚を見に行くのか

「宝塚」は文化趣味の中でも、もっとも男女間の嗜好差が激しいものかもしれない。

僕も宝塚出身女優は何人か知っていても、舞台自体を見に行くことについては、機会のニアミスを繰り返し、結局一度も無かった。興味の度合いは、その程度である。

しかし、このたびとうとう自分でチケットを予約・購入して見に行くことになろうとしている。好きな後輩の小説が原作となり、星組公演で舞台化されるからだ。

 

 

並木陽、は学生時代の文芸サークルの後輩だ。

入学したての18歳の頃から、本格派の歴史小説を続々と書き上げるすごい人材で、とんでもないのが入部してきたなと一撃でファンになった。
筆名も当時から一貫しており、作家としてのスタンスがすでに定まっていたのを実感する。


当時サークルで発行されていた同人誌より

 

ていねいな取材に基づいたリアルな叙述が彼女の作風で、店の名前や小道具にひとつ至るまで精密に描くことで、その時代に生きているかのような感覚に浸らせてくれる。途方もない熱意と愛情がなければ、こういう作品は生まれないだろう。

彼女はその後も同人活動を通して創作を続け、2017年には同人作品『斜陽の国のルスダン』がNHK-FM青春アドベンチャー」でラジオドラマ化されるという大きな成果を挙げる至った。

僕はミュージックスクエア青春アドベンチャーの流れを愛聴していた高校生だったので、この枠に知己の作品がオンエアされるというのは、人生のイベントとも言えるほどうれしい出来事であった。

そして驚くことに、並木さんはその後毎年たて続けに青春アドベンチャー枠で作品を発表し続ける。

  • 2018年『暁のハルモニア』(2週連続)
  • 2019年『紺碧のアルカディア』(2週連続)
  • 2020年『悠久のアンダルス』(2週連続)
  • 2021年『1848』(3週連続)
  • 2022年『軽業師タチアナと大帝の娘』(3週連続)

ウィキペディアを見ると、書き下ろし作品で3週連続なんてやっているのは並木さんだけなのですごい胆力だなと驚嘆する。

『タチアナ』のオンエアは先週終わったばかりで、今年も僕は至福の3週間を過ごし、いつもなら翌年の作品オンエアを心安く待ち受けるところなのだが、今年はルスダン改め『ディミトリ』の宝塚公演が待ち受けている。

行くのか……とうとうおれも宝塚に行くのか……

 

公演を前にして、原作『斜陽の国のルスダン』が商業出版へと切り替わるらしい。

 

まずはそれを購入し、心を落ち着けようと思う。

昭和二十六年、祖父の贈賄容疑を探る(2009.10.15公開記事を再掲)

僕の祖父は名を加藤文吉といい、明治43年に生まれ、平成5年の僕が中学3年生のときに83歳でこの世を去った。もう16年前の話になる。

じいちゃんは質実剛健かつ豪放磊落な感じの人で、75歳まで会社で仕事をし、引退後は書道と囲碁を嗜んでいた。
老人同士で集まるのをあまり好まず、最後まで威風のある生き方を通した人だったと思う。

これは僕がまだ2~3歳の頃、祖父の胸にカンガルーのように抱かれている写真だ。

記憶の中に在る祖父は厳しく、静謐な雰囲気を持つ人だが、孫にはやっぱり優しかった。
僕は小学生の頃、祖父の散歩に常にお供を申し付けられ、そのたびにハンバーガーやホットドッグにありついた。遠くまで散歩に出るときは、浅草で寿司を食わせてもらったり、新宿で天麩羅をご馳走になったりした。
要は、なかなかにかわいがられていたのだ。

 

父や叔父も含めて、祖父のことを敬っていない人はなく、完全無欠とまではもちろん言えないが、芯の強い立派な生き方をした人だった、というのは家族の共通理解のように思える。

 

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さてそんな祖父だったのだが、先日の事になる。

ネットをだらだらと見ていて気だるくなってきた僕は、暇に飽かせて祖父の名前をネットで検索してみた。
検索結果は41件。
祖父の名前で表示される全然別人のことがほんのりと面白くてそれらを眺めていた。ネット時代の前に亡くなった人だったので、引っ掛ってきたのはほとんど全部、同姓同名の別人だったのだけれど、ひとつだけ、「あれ? これはじいちゃん本人ではないか?」と思われる検索結果があった。

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うっかりすると死ぬ、奥穂高岳3190m

44歳になって思うことは、「あと何回、北アルプスに行けるのだろうか」ということだ。

山岳遭難で一番多いパターンは「50代・単独・経験者」なのだそうである。あと6年したら僕もこのグループの仲間入りになってしまう。

僕は2017年に厳しめの遭難を発生させてしまった「前科」のある身なのであまり偉そうには言えないが、それでも「最悪の事態を避けながらプランをやり抜くこと」が登山の本質的な魅力だと強く信じている。
たとえ筑波山でも箱根山でも登山は「うっかりすると死ぬ」のだ。
体力・判断力がそのレベルに落ちる前に、あと何回行けるのだろう。

 

不安の中の「奥穂高岳

今年はワクチンを接種して迎える最初の夏だったので、3年ぶりに登山へ行ってきた。

丸3年も離れると感覚が体から完全に抜け落ちる。
ザックのどこに何を仕舞っていたか、自分の運動ペースと気温に合った重ね着はどんなだったか、給水と行動食に何を用意していたか、朧げな記憶を辿りながらの準備になった。

不安なので、まあ今年は足慣らし程度のコースにしておこう、と選んだのが「上高地〜涸沢〜奥穂高」という超メジャーコース。

昭文社山と高原地図38』より

昭文社の山地図では「上級」となってはいるが、雑誌『山と渓谷』では特に難しいとは書いていないレベルだ。
結局は自己判断になるのだが、ある程度挑戦的な要素もないとつまらない。
そこで、ちょっと頑張ってみることにした。
そして、少しだけ死ぬかと思いながら帰ってきた。

 

悪天の山頂付近

日本でも有数の歴史ある登山道らしく、迷うところは何一つない。整然と整備されている。

上高地〜涸沢までは、ちょっとしたハイキングぐらいの運動量で、むしろやや冗長に感じるぐらいだった。

問題は穂高岳山荘(2983m)より上である。

登る前は「頂上(3190m)まで、標高差200mの尾根歩きかー」と軽く考えていたのだが、小屋までたどり着いてみると、ものすごい烈風
日本列島の頂端を西から東に吹き抜ける豪風が、僕の全身を吹き飛ばしにかかってくるのである。
そして天候は雨で視界も最悪。
まあ、雨雲の中にみずから突っ込んでいっているので当たり前なのだが、8年ぶりぐらいに3000m級の悪天候とは何であったかをその全身に浴びて、久しぶりに脳の中にスイッチが入る。「あ、うっかりすると死ぬな」と。

 

北アルプスは夏でもけっこう人が死ぬ。

前に劔岳に登ったときも、僕と同じコースで次の日に死者が出たし、今回の槍穂山域でも「すでに死者が出ているので注意してください」と喚起がされていた。

以前、友人と7月上旬に八ヶ岳に行ったときもすさまじい悪天候に見舞われ、息も絶え絶えに小屋で一泊して引き返すということがあった。
あの時は頭が芯まで冷え切ってひどい頭痛に襲われ、震えながらシュラフと毛布にくるまって何とか乗り切ったのだ。

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穂高山頂までの岩稜は、マーキングが明瞭で迷うことこそないものの、視界は悪く、吹き付ける雨風は容赦ない。体温が少しずつ奪われ、八ヶ岳で感じたあの頭痛が頭蓋骨の中へ徐々に染み出してくる。

しかし。そんなこともあろうかと、僕もいくつか準備をしている。
一つずつカードを切るように繰り出していき、残っている体力をコントロールしながら、なんとか頂上まで到達することができた。

日本3位の標高地点にいるのだが、表情に完全に余裕がない

後日、実家の母に送ったら大爆笑された。

実の息子が0.1%ぐらい死にかかっているというのに爆笑できる心の余裕がすごい。(義理の母は真剣に心配してくれた)

 

ともあれ、このあとは無事にテントまで戻り、普段の倍ぐらいご飯を食べてから12時間眠り、無事に3日目の下山行程を終えることができた。

終わってみると何のことはない、天候に恵まれなかったものの、楽しい夏山ひとり旅だったようにも思える。
冬山のように始終吹きさらされることは全くない。

しかし、実際には「なぜこんなことをしているのか?」と何度も思いながら歩を進め、なんなら命の危険性を感じながら、行程の達成に向けて最大限の努力を試みる、という過程がそこにある。

そんな思いをしながらも、帰ってきて結局は「40代のうちに……」と次に行くコースを際限なく検討し始めてしまう。

「そこに山があるから」などという言い回しだけでは説明できない何かが、この趣味にはあるように思える。

僕は記憶のカプセルになりたい

“雨ざらしなら濡れるがいいサ だってどうせ傘など持ってねェんだ
 時が来たなら終わるもいいサ それが俺の最後の運命だったら”


earstern youth『雨曝しなら濡れるがいいさ』

 

10年前、僕は死ぬことにあまり興味がなかった。
子供もいない、持ち家も財産もない。
このまま記憶と感覚が消えても、残した文章と写真が僕がいたことを物語ってくれる。
あとは一条の煙のように風に消え去り、それでいいだろうと思っていた。

そして今。
僕は死を、可能な限り遠ざけたいと思うようになっている。
子供が幼かった頃の記憶を失いたくないからだ。

子供ももう6歳になり、乳幼児期にあった全力100%の無邪気さは徐々に無くなってきている。
今思えば3歳ごろが最高潮で、言葉をどんどん喋り始めた時期の

「あー、その言い方、惜しい!」
「え!もうそんな言葉使うの!?!?」

的な驚きは何にも代え難い面白さがあった。


Facebookの非公開でもよくメモしていた(たまに公開範囲を間違えると恥ずかしい)

 

その思い出だけでも十分に面白いのに、iPhoneがまた、その頃の写真をいいタイミングでサジェストしてくるのである。
一枚一枚からあふれ出る思い出が止まらず、うっかり30分ぐらいニヤつきながら、記憶を舐め回すように写真を延々と見入ってしまう。


この記憶を失いたくない。

死、とは言うまでもなく意識、つまり記憶と感覚が消失してしまうことである。
たとえこの身から感覚が失せても、この世界で僕とカミさんだけが保有している、子供が乳幼児だった頃の記憶が、死によってこの世界から消え失せてしまうことが耐え難いのである。


藤子・F・不二雄の短編に『おれ、夕子』という作品がある。

中学生の娘を亡くした科学者が、亡くした娘の人格と身体を細胞改変によって蘇らせる、というストーリーなのだが、その最後に、父親が娘と在りし日の思い出に浸り涙するシーンがある。

中高生の頃はふーんと読み飛ばしていたシーンだが、今の僕にはこの父親の気持ちが分かりすぎる。
そりゃ人の道を踏み外しそうにもなるよね、わかるよ……、とこの文章を書きながら思わず涙してしまう。
6年前、雪の降る夜に病院で生まれたその日から、連綿と続く記憶の代え難さ。
これがいつの日か消失してしまうのか、と。

 

とはいえ、現実に僕の意識はいつか消失してしまうので、その対策として考えているのは「記憶のカプセル化」である。
あと30年もすれば情報科学の発達により、ヒトの意識も再現できるようになるだろう。
そうしたら僕は記憶のかたまりになりたい。
子供が幼かった頃の甘美な思い出だけが繰り返しされる意識体「記憶のカプセル」となり、大空へ打ち上げられて、永遠に宇宙を旅したい。


火の鳥・宇宙編

 

しかし、数十億年も意識が続き、記憶が再生され続けるというのも空恐ろしいものがある。
いつか、この娘の記憶も、保存とかされずにやっぱりこの世の煙となっていいかなと思う日が来るのだろうか。孫が生まれたときとかだろうか。

 

いつのことだからわからないが、今日も娘は、幼稚園であそんでいた「ぽっくり」を引っ張り出して、「ぽっくりけいびたい でーす!」と無邪気に叫びながら家の中を歩き回り元気である。

 

煙になっていいと思える日は、しばらくは来そうにない。

40代になると「自然が偉大」とか思い始める

今年の冬はとにかく寒く、緩む気配を見せない寒波にうんざりすることも多かった。

それでも救いなのは、冬至を境に確実に日の長さと高さが増大していくことである。
一日ごと伸びていく夕方の長さには少しでも期待を持つことができたし、冬至には庭のふちまでしかなかった日照範囲がぐいぐい広がっていくさまは、続く寒さもいつかは終わるという気持ちを確信に導いてくれた。

そして僕は思ったのである。

「自然ってすごいなあ……」と。

ここ数年の教育のICT化で僕もすっかり情報機器に詳しくなり、今では常時4〜5種ほどのデバイスを駆使する日々である。

生徒たちとは授業と課題研究のなかで情報をびゃんびゃんやりとりし、10年前では考えられなかった密度で教育を行えるようになった。
出張も半分くらいはZoomで済むように社会の雰囲気も変わってしまった。

しかし、それでもなお日辰の運行に、人はこれっぽっちも手を出せないのである。
一日刻み・分刻みで進行する太陽や月の運行に従って四季の寒暖や潮の干満は粛々と進行し、それに対して人類は指一本たりとも変化させることができないのである。

 

と。

壮大に偉大さを感じたところではたと気が付いたのだが、この感情は、ここ100年ぐらい人類が40歳あたりになると感じていた感情なのではないだろうかと。

 電信・電話が普及したとき。

 送電線が整備され、電気の利用が普及したとき。

 テレビや冷蔵庫が家庭に普及したとき。

 インターネットが普及したとき。

40年生きているあいだに世界のあり方が変わったような技術革新を経験すると、産まれた頃と比較して変わるもの変わらないもの差に慄然とし、人はそう思ってきたのではないかと。

うちの子供はもうすぐ6歳なので、34年後に向けてタイムマシン郵便でこの日のこの記事を届けてやったら、どう思うだろうか。

数奇な猫の最期と、干物を焼いた日のこと

もう3年ほど前になるが、実家のマンションで飼われていた猫が13年の命を終えた。

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亡くなる数日前。当時2歳の長女とともに。

学生時代からアパートで幾多の猫を飼い、さまざまな生涯を見てきた僕だけど、この猫の生涯は数奇であったなあ、と思うところがあるのでちょっと記録したい。

叔父と猫の別れ、祖母からの受難

猫が飼われ始めたのは、かつて東京にあった僕の生家だ。
築何十年という古い古い昭和家屋である。

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祖母と独身の叔父(いわゆる「子供部屋おじさん」)が二人で暮らしていたところに、いとこが拾ってきたらしい。

子の無かった叔父はこの猫をたいそう可愛がり、ミーコ、ミーコと呼んで溺愛していた。エサも相当にいいものを食べさせてもらっていた。

何歳になっても口うるさい祖母(いわゆる「毒母」だった)に辟易としている中、家での生活を唯一明るくしてくれた存在だったのだろう。

 

その叔父が平成21年に63歳で急逝する。
たぶん、心臓か脳か、その辺の異常が突発したのだと思う。

 

@nifty:デイリーポータルZ:叔父の遺品を紹介します

 

結果、猫と祖母だけがぽつりと古い家に残された形になった。

ネコちゃんは息子の形見として、大層おばあさんに可愛がられましたとさ……となれば美談なのだが、現実はその全く逆で、えらく邪険に扱われることとになった。

祖母は大の動物嫌いだったのである。

布団に入っては「この猫め!」と追い出され、エサはしらす干しやカリカリを適当に与えられるだけ。ネコとしてはこの時期は、ヘブライ人並みに大いなる受難の時代であったと言えるかもしれない。

一度、祖母の家を掃除しに行ったら、はみ出した餌が餌場の周りに層を成して大変なことになっていた。祖母の家事能力もだいぶ衰えていたし、仕方のなかったことなのかもしれない。

それから3~4年ほどして祖母も老齢の限界を迎え、施設に入所することになったため、猫はうちの両親がマンションに引き取ることになった。

 

干物を焼いた日

秋の日。
祖母も叔父もいなくなり、空き家となった生家に、猫を引き取りに行った日のこと。

どこを探しても猫がいないのだ。

古い昭和家屋であり、最大で家族10人が同時に住んでいた家である。押入れ、家具の下、天井裏、隠れる場所には困らない。

こちらも0歳から生まれ育った家、壁のシミ一つに至るまで覚えている。プライドに賭けて負けられないと、記憶・経験、振り絞って探したのだが、気配すら感じられなかった。

遅れて到着した兄も一緒に探したのだが、何の成果も得ることができず、二人で相談の結果、干物を焼いてみることにした。

子供の頃、お使いによく行った魚屋に向かい、アジの干物を2枚手に入れる。
もう何十年も立っていなかった祖母の家の台所、子供の頃に遊び回った台所に立ち、グリルでアジの干物を焼いた。焼け焦げた煙と魚の匂いが、幼い頃の記憶を刺激するかのように強くたちこめる。

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結局、それでも猫は出てこなかった。

干物は、熱いうちに兄と二人で食べ、僕はビールを飲んだ。
そしてテレビをつけ、2時間ほど兄と取り止めもない話を続けた。

夕方になり、今日はもうあきらめて帰ろうかという時間になったとき、階段の上から猫がニャーと鳴きながら降りてきた。

干物の余りをあたえると、あっというまにしゃくしゃくと食べ終え、用意したケージにするりと入り、猫は僕の両親のいるマンションへと連れられていった。

 

祖母、父との別れ

祖母はそれから2年ほどで亡くなり、何だかんだで溺愛していた父もその5年後に亡くなった。それから1年して猫自身も亡くなり、一生のうちに3回飼い主と死別した猫の生涯は終わりを告げた。

 

あの秋の日、猫は干物の煙の匂いを嗅いでも出てこずに、いったいどこで何をしていたのだろうか。

思い出す。まるで人生のなかから切り取られて浮遊したような1日だった、兄と二人で干物を焼いた日のことを思い出す。