まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

寄席メモリーズ2024春〜夏

6月

鈴本演芸場 6月中席 落語協会百年興業

桂文枝師匠(つまり三枝)が東京でトリを取るという大変にレアな興行。

今年で80歳、これを逃したらもうほぼほぼ見る機会はないだろう、ということで、手術明けのままならない体を引きずって、当日券の行列に並ぶ。

どの落語ファンも狙っている興行と見えて、平日の開演1時間以上前から行列。
10日間、すべて満員札止めだっただろう。

 

顔付がすさまじい。大御所そろいぶみ。

正蔵師匠はNHKで「出演料で言ったら文枝師匠は寄席に出てもらえるようなランクの方では無い」と素直に言っていた。
その心意気に応えるように落語協会全総力をあげて、文枝師匠を東京にお迎えという気持ちを表したのだろう。
その結果として生まれた、3000円で見ていいようなクラスでは無いこの興行。
互いの心意気に深く感謝したい。

 

芸的には、美人落語家で売り出してる二つ目の美馬(みーま)さんが思いの外に上手かったのが印象的だった。普通に上手い人枠で売り出した方がいいんじゃないか。

(余談:この2日後、ぼくはコロナを発症し5日間寝込む。そして3週間ほど後遺症で呆けて過ごす)

 

7月

末廣亭 7月下席

コロナのせいで、7月上席の神田松鯉先生の怪談も聞けず、たいへん残念に思っていたところ、遊雀師匠トリの会の前売りをなんとか買えたので滑り込み参加。

遊雀師匠がトリの芝居を見たことがなかったので大変にうれしい。
さらに席が、これまで座る機会を持てなかった桟敷席だったのでこれも嬉しかった。
まだまだ「はじめて」がいっぱい残されている落語道楽に浸かれるのが本当に幸せだ。

寄席の芸も素晴らしかった。
小痴楽の『宮戸川』、「発情するおばあさん」という見たことのないキャラが出てきたのに度肝を抜かれた。あんなことやっていいんだ。

8月

浅草 8月上席 「にゅうおいらんず」

宮治はあまり寄席に出ない。

笑点メンバーでもトップクラスの人気、あれだけの売れっ子になるとホールを回るギャラのいい仕事が次々と入ってしまうからだろう。
(そんなこと関係なく寄席に出まくっている一之輔は真の求道者)

そんな宮治が寄席に出る。
去年から噺家バンド「にゅうおいらんず」のメンバーになったからだ

宮治・昇太・小遊三笑点メンバーが3人も出るこの日の浅草の熱気はすごく、猛暑を物ともせず当日券の大行列ができていた。

宮治の、轟音で走り抜けるアメ車のような落語もすごく良かったが、「にゅうおいらんず」になってからの場の制圧力もすさまじかった。
客席への気配り、舞台全体への目配り。スター性が本当にすごい。
昇太が「笑点はいま、民放の全番組で視聴率トップ」と言っていたが、それもうなずける。

 

 

林家たい平の小学生から楽しめる落語会 @さいたま市民会館岩槻

親が熱心に落語ファンをやっていると、その熱が子(小学3年生・女子)にも徐々に感染していくようである。
購読している落語専門誌「東京かわら版」に、気がつけば、娘の見たい落語会へとふせんが貼られていた。

こうなったら落語パパとしては連れて行ってやるしかあるまい。
岩槻も車で行けない距離ではないので、夏の思い出に一緒に行ってきた。

 

笑点でなじみのあるたい平師匠に加え、太神楽の達人・翁家和助さんも見られて大満足。

うちの子供はちょっと内気なので大人の行き交う寄席で見るよりも「小学生でも楽しめる」と謳っているこの落語会の方が安心して見られたようだった。

帰りの車で「初天神」の金坊のセリフを喜んでリピートしており、たい平師匠の見事な芸をまさに全身に浴したのだなと、たいへんにありがたく思いながら帰途に着いた。

次は「つる子の独演会が見たい」と言うので、万難を排してチケットを取りに動こうと思う。

VRゴーグルで首を痛めた結果、頚椎にネジ6本打ち込むことになった話(後編)

あらすじ(詳しくはリンクを)

・右肩〜腕の痛み/痺れを感じて通院
・頚椎ヘルニアの悪化した「頚椎症性神経根症」と診断
・2年かけて4人の医師の先生に診てもらった末、意外に大がかりな手術となる「頚椎前方除圧固定術」を受けることを決定

2024年4月 四谷先生の診察(手術の1ヶ月前)

手術する前提で病院を変わったので、四谷先生との打ち合わせの焦点は「手術する/しない」ではなく、現実的な手術の日程とリスクなどについてとなる。

病変部を除去しても神経損傷はすぐに回復しないため、長い期間で回復を見ていく必要があること。手術しても10人に1〜2人ぐらいは症状の改善が無いこと。その他、気道や脊髄へのダメージのリスク、など。

「人間が人間に対して行うことなので。100%はありません」

四谷先生がクールに手術のリスクを説明していくにつれて、僕は手術に対する恐れより、こんなリスクが存在する作業を日々の業務にされている脊椎の専門医の先生方への畏敬の念のほうを強く感じるようになった。

僕も教員という職業をかなり真剣にやっているつもりだし、その重要性を自分でも信じていることが仕事のモチベーションになっているけれども、生命機能の根幹部の付近をドリルで削ったりネジを埋めたりするリスクを負い続けることに見合うモチベーションとは、いったいどこからやってくるのだろう。

説明が終わったあと「何か聞きたいことはありますか」と言われたので、思わず率直にそんな気持ちを恥ずかしげもなく喋ってしまった。
四谷先生は「ちょっと大げさに言いすぎましたかね」と少しだけ照れ笑いをされた。

 

2024年5月 入院

1ヶ月仕事を休めるように段取りをモーレツ社員ばりの勢いで進め、手術前日の朝にすべりこむように入院する。
麻酔科医の先生と面談。「前もうちでやったことあるねー」と和やかにお話。
しかし全身麻酔の手術は3回目だが、やはり緊張する。下手にあの感覚を覚えているだけによけい緊張する。

何というか、臨死体験に近い。意識がふうぅっと遠退いていきプツッと途切れる。
時間の経過の感覚は無い。
夢を見ていたような記憶も無く、すっと目が覚める。
その間にノドを切り裂いて、首の骨を削られ、ネジを埋められても気が付かないのだからすごい。全身麻酔を体験してから、人間にとって意識とは記憶とは感覚とは何なのかを深く考えるようになってしまった。

 

手術当日

朝ごはんは食べずに術着に着替え、朝イチで手術室に向かう。
前回は足の骨折だったので車椅子だったが、今回は自分の足で歩く。
ナースステーション裏のエレベーターから病院の深奥部に踏み入れる感覚がぞわっとする。

手術室に着く。静かな水面のような心持ちで、手術台の上に自分の足で乗り、寝転ぶ。酸素マスクをかぶせられ、脳波のハチマキみたいなのをつけられ、点滴の管は左手の甲に刺さる。針が太くて痛い。

サインした「手術同意書」には「執刀直前まであなたには手術を断る権利があります」と書いてあった。理論上はここで拒否することもできるのか、と不思議におかしい気持ちになる。

全身麻酔のための導入薬が左腕にジジッと染み込んでいくのが、いつも通り最後の記憶となって意識が途絶えた。

 


その間にこうなる

集中治療室(HCU)へ

すきっと目が覚める。
ゴロゴロとストレッチャーで運ばれる目の前には四谷先生と家内がいた。
4時間かかったらしい。もう昼の2時だという。ぼくは最高の睡眠が取れた朝のような爽快さでハイテンションに喋りつづけていた。麻酔の薬がなんか変な方向に効きすぎたのかもしれない。手術の顛末を簡単に聞き、そのままでHCU(ICUよりも一段階緊急度の低い集中治療室)で一晩バイタル管理をされながら過ごす。

あらかじめ分かっていたことだが、この部屋では何もすることができない。
術後すぐなのでベッドから起き上がれないし、ラジオもケータイも持ち込めない。酸素チューブほか3〜4本の管が刺さったまま天井と心電図をただ眺め、考えごとをして過ごす。

ーー何でこんな病気、なったんだろな。

ーー手術の効果、出るかな。

考えてもしょうがないことばかり思い浮かぶ。
前の骨折と違って、今回は原因が「老化」である。誰にとっても老化は予想もしなかった方向から襲いかかってきて、心の準備をさせてくれない。
でも手術&1ヶ月の入院療養で済むのだから、まだましな方かもしれない。友人や家族の幾人かは若くして癌で亡くなった。あれも老化だ。それに比べれば手術して補修できる老化なんてたいしたことない。

いや、補修できているのだろうか。

肩が猛烈に痛い。

手術中に意識の無いまま変な体勢をとりつづけていたのだろう。肩甲骨の奥の方から強い疼痛がする。手術のせいで余計悪化したのだったらどうしよう……職場にも家族にも迷惑をかけたのに……

ーーーー

……と、このときは不安でたまらなかった。
しかし術後3週の現在で、ものすごく治療の結果が出て、手術の成果をかみしめている

このブログ記事を書いているのも、同じ手術を受ける人のこのHCUでの不安が少しでも和らげばと思ってのことだ。
僕だけの話でしかないが、この痛みは3日経つ頃には弱まり始め、退院する頃にはほとんど消えた。手術で病変部付近のバランスが不安定になったのだろう。

ーーーー

暗いことばかり考えて何時間も過ごしてもしょうがない。
首の傷口を確認するために看護師さんから手鏡を借り、部屋のようすを鏡に映して観察して、スパイ気分で部屋の構造を類推したりとか、そんなことで退屈をしのいでいた。

それも飽きたので、試しに息を止めてみた。そしたら心電図にアラートが出たので、あわてて呼吸を再開した。

代わりに何を考えたら心拍数上がるのかなと実験してみたが、大した成果は出なかった。

そうこうしているうちに20:30の消灯となり、電気が消えた。
寝付けない人が多いらしく、看護師さんのほうから睡眠導入薬を勧めてくれたので飲んだが、それでも深く眠るのは難しかった。

 

病室にもどり

翌朝、病室へ運ばれて戻る。

当初、頚椎の間に腰の骨を採取して埋める予定だったのが、四谷先生の現場判断で「このケースは人工骨でも大丈夫」となり、体の負担を軽くするため人工骨での施術となった。
(黒いマーキングだけが腰に残されていた)

それなら歩くことも翌日ぐらいには可能かなと思いきや、リハビリ担当(理学/作業療法士)が来ないと歩くことはできず、担当が来るのは土日を挟んでの2日後なので、それまでベッドで寝てて下さい、ということになった。

これで何が困るかというと、「歩いてトイレに行けない」ことだ

尿はカテーテルから出ていくので不便はないが、そうではない方が問題だ。
ごはんは3食ふつうに供されるが、体外に出すことができない。出せないのが嫌なので食べたくないのだが、すると「この患者、栄養が取れてない」ということになり、点滴を外してもらえなくなる。そうすると結局歩く自由はなくなってしまう。
というわけで、「歩きたいならウンコを48時間我慢しながら、1日3食をたべる」という結論となるため、6食分を消化管内に溜め込む羽目になった。これはつらかった。

そんなことより、痛み/痺れの回復の話をするべきだった。
首の傷口の方は驚くほど何の痛みもなかった。執刀チームが凄腕だったのだろうか。定期的に点滴される鎮痛用の麻薬増加ボタンを押すこともなく過ごすことができた。

(麻薬増加ボタンについては、7年前の入院時の記事を読んでください)

起き上がってから退院まで

しかし痺れの回復の方はかなり雲行きが怪しかった。なんか悪化した予感がするのだ。

日常動作をしていないから回復してるか分からない上に、術前にはなかった痺れや痛みがかなり出ていた。特に不安になったのは、箸やフォークが痺れで持てなくなったことと、歯磨きで右腕がめちゃくちゃに痺れる症状が発生したことだった。「あれ、自分もしかして手術の成果が出ない1〜2割の方だった?」と手術後2〜3日は不安でたまらなかった。
(これも退院し、日常に慣れた環境に戻ってからはすすっと痺れも出ないようになり、術後3週間の今は全て普通にこなせるようになった)

 

月曜になりリハビリさんも来て、歩く練習が始まった。
と言っても腰骨にはメスを入れてないし、まだ40代の男子なので、全く問題なく歩くことができる。
術前の麻酔科医の先生との面談では「むしろ首より腰の方が痛くて歩くのが大変だと思うよ」と言われていたので、その腰の傷が無いというのは大変助かった。
あちこちのインターネットで「歩けるようになったら退院」と書いてあったが、もう歩けてしまったので、なんか早くに退院できそうな予感がしてきた。

そしてその予感通り、術後1週間でのレントゲン・CT・血液に異常がなかったので、早々の退院となった。もちろん自宅で安静にしていなければならないのだが、病室で診るほどでも無いだろうことなのだろう。

 

2024年6月 (手術の3週後まで)

そして術後3週目までの回復の様子。

手術前の状態なのだが、右手の人差し指と中指に軽い感覚麻痺が出ていた。この症状の悪化させたのは病院での検査である。

レントゲンを撮るときの背筋を伸ばした姿勢が悪い。5秒、10秒単位で痺れがどんどんゲリラ雷雨のように悪化していくので、技師さんに「早く、早く撮ってください!」と顔をしかめてお願いすることもあった。

さらに悪いのはMRIである。
あのときに使うマクラの高さと硬さが、負のツボ治療みたいな感じで神経根にダメージを与えてくる。高さを加減してもらったりもしたが、やっぱりだめで、撮影終了後、右上肢全体が強烈な麻痺状態になることもあった。

しかしこの麻痺が術後3週目あたりから順調に抜けてきて、手術の効果を実感している。
また術後2週間でレントゲン検査を受けたがその姿勢で痺れを感じることは無かったので、ああ、おれは良くなってるんだなぁ、と実感できた。
これ以外にも「ひげ剃りのとき」「おりたたみ自転車に乗る」など、必ずこの姿勢で強く痺れるんだよな、と感じていた各シーンで痺れを感じることが減ってきたので、確実に手術の成果は出ている。

痺れがゼロになったことはないのだが、体感的に、術前が10だとすれば、4〜3ぐらいまで減ってきている。(手術直後、いったん12ぐらいまで増えてあせったが)

まあとにかく、良くなっている。

 

傷跡とプレートによる圧迫

手術で避けられないのは傷跡だ。

僕は40代男性なので傷跡なんかどうでもいいのだが、女性はいくつになっても首にこんな大きな傷跡ができるのは嫌かもしれない。でも先生が首のシワに沿って切ってくれるので、思ったより目立たない。

それよりも引きつって動かなく感覚のほうが僕は気になる。
首の皮膚の柔らかな感じがなくなり、ぐいっと首をそらすことができない。
不便が出るほどではないが、まだ違和感に慣れない。

もう一つ、気道と食道を圧迫する感じのことだ。
プレートを埋めた厚みの分と、手術による腫れの分で、6〜7ミリだがノドの前方が押される形になる。これはそれぞれ「就寝時の呼吸しずらさ/声の出しにくさ」と「食物の飲み込みにくさ」として現れてきたが、慣れの問題かなと思える。

おやつに買い食いしていたナッツがのどに引っかかるんですよねー、と病室でリハビリさんにこぼしたら、「普通、病室でこんな固いもの食べてる人いないから!」と大笑いされた。

 

まとめ

最低でも術後4週までは骨が繋がっておらず安静生活なので、ゆっくりとブログを書いてみた。

発症から手術まで2年以上かけてしまったので、神経にずいぶんダメージを負わせてしまった。本当の回復度を見るには、半年、1年見ないといけないのだが、3週でもすでに手術の効果をかなり実感できている。まだまだ期待が持てそうだ。

何より、「自転車とウォーキングが再びできること」「これ以上悪くならないこと」がはっきりと手元に戻ってきたのが嬉しい。昔のように、やりたいことを指折り数える気持ちを再びとり戻すことができている。もう半年ほどしたら、回復の度合いをあらためて報告したいし、昔のように面白いブログ記事を書けることにも挑戦していきたい。

この記事が、同じ症状、同じ手術で悩んでいる人にとって、少しでも参考になればいいと思う。

VRゴーグルで首を痛めた結果、頚椎にネジ6本打ち込むことになった話(前編)

概要

VRゴーグルロードバイクが引き金となって「頚椎症性神経根症」を発症。
右肩から指先までの痺れや麻痺が続く。
4人の医師の先生に診てもらった末、発症から2年3ヶ月後に骨棘除去&人工骨埋設&頚椎プレート固定をする「頚椎前方除圧固定術」を施術されることになった。
その顛末の話。

 

2022年2月 発症(手術の2年3ヶ月前)

原因は二つある。

VRゴーグルのボクシングゲームに夢中になりすぎたこと、もう一つはロードバイクでの通勤にいそしんでいたことだ。

もちろんこの二つをやっていても発症しない人は無数にいるので、もっと大元をさかのぼれば「首の形の遺伝的要因」ということになるのだが、それでもはっきりと違和感を感じた日のことは覚えているので記録しておこう。

 

その冬、僕はダイエットの一環としてVRゴーグルをレンタルで借り、ボクシングゲームに挑戦していた。
楽しくボクササイズする「FIT BOXING」と違い、3D空間でバイブレーションの刺激と共に相手が迫ってくるVRのゲームはリアリティが段違いで夢中にさせられたが、プレイ後、妙な痛みが右肩に残った。

四十肩になったときの痛みに近かったので、「アッ、これは再発したかな?」と思い、じきに治るだろうと気楽に構えていた。

 

2022年9月 受診(手術の1年7ヶ月前)

肩の痛みは、床に直座りすると痛むものの、生活に支障が出るほどでもなかった。

さて、僕はこの2年ほど前からロードバイクを始めていて、春/秋には片道17kmの職場まで通勤につかうこともあった。
この日も仕事が終わってロードで帰路につき、颯爽と飛ばしていたのだが、途中から右腕にこれまでにない電流が地味に流れるような痺れを感じたのが気になった。帰宅後もこの痺れがだらだらと続いた。

特定の姿勢をとると必ず出る。ロードバイク以外にも、背もたれのない椅子に座る、風呂で髭を剃る、などの動きをすると必ず痺れる。

特に困ったのはジョギングをすると痺れる、ということだった。ジョギングは30年来の趣味で、僕の人生はこれを軸にして仕事/趣味/生活が成り立っていると言ってもいいぐらいだ。

ちょうどテニス肘っぽい症状もあったので、合わせて近所の整形外科に行き、症状を説明すると「上を向いてみて」言われた。
言う通りに向けると痛む。
即座に「たぶん頚椎ヘルニアだね」と診断される。
さすが医師(一人目なので「一ノ瀬先生」としましょう)、症状の経緯と簡単な診察でああっと言う間に病名を特定してしまう。

「しばらく経つと神経の方も慣れてきたりして大体は治まるからおとなしくしていなさい」と言われる。

 

2023年2月 急激な悪化(手術の1年3ヶ月前)

僕は言われた通り半年ほどおとなしくしていた。
病状はテニス肘と共にだいぶ治まっていき、そろそろ運動を再開してもいいかなと思えた。こんなブログ記事も書いている。

じつはこの記事を書いて運動を再開して早々に、腕の痺れが再び悪化した。

歩くだけで痺れる。寝てても痺れる。ソファで寝ころぶ以外の全ての姿勢で痺れる。
悪い時は手の甲の感覚にほんのり麻痺が出る。ジョギングどころの騒ぎではない。

もうこれはアカンな、と感じた僕は、このころ足首骨折で世話になった医師の先生に、頚椎に詳しい方への紹介をお願いした。
そして受け持ってもらえることになったのが二宮先生だ。(二人目なので「二宮」です)

 

二宮先生との1年間

二宮先生は状況を聞き、つらいのはわかるがしばらくは保存療法(つまり安静を保つ)で対応しましょう、と勧めてくださる。
病変部はそれほど大きくはないが、靴の中の小石と同じで、大きさに関わらず痛んだり痛まなかったりするんです、しばらく待ってみましょう、と。

第一、手術をするとなると結構大がかりになるという。
最低でも2週間以上は仕事を休むことになるし、重苦しい感じがずーんと残ることも多い、と。

というわけで約1年間、月に1回の頻度で通って、処方された薬を真面目に飲み続けた。

通院を始めたときのひどい症状は時間と共に少し軽減されたものの、本質的な症状が良くなる感覚はほとんど無かった。ブロック注射を施してもらったこともあったが、特に効果を感じられなかった。
夏になり、秋になり、季節が変わる度に「そろそろ良くなってるかな?」と期待してジョギングに挑戦してみるも、200mぐらいで痺れが出てあきらめるの繰り返しだった。

悪くもならないが良くもならない。運動は何もできない。趣味の登山も置いてけぼりである。
この1年の僕のブログを見て「この人、落語ばっかり行ってるな」と思った方もいるかもしれないが、現実的に、痺れがつらくて落語鑑賞以外に何もできなかったというのはあった。

ジョギングに勤しんでいた頃の体型は崩れはじめ、人間ドックの数値も悪化し、生活の艶はどんどん失われていった。
そして2023年末、大掃除をしていたところ症状が再び突然に悪化した。
強い痺れが高頻度で出るようになり、僕はしびれっぱなしの2024年正月を迎えることとなった。

年明け、二宮先生はブロック注射を打ってくれたが、やはり改善した感じはなかった。
これはとうとう、本格的に手術を検討するべき時期かなというタイミングで、二宮先生が年度末をもって別の病院に移られるとのことでだったので、手術をする前提で僕の自宅近くの別の病院を紹介していただいた。

担当は3人目、三上先生に移る。

 

2024年3月(手術の2ヶ月前)

三上先生の病院で、脊髄に造影剤を入れてCT検査を行う。
手術の是非を検討するためには、より仔細に脊髄と頚椎の状況がわかるこの検査が必須なのだと言う。

だがこの検査がめっちゃ怖い

かつて二度ほど全身麻酔の手術を体験したことがある僕だが、見ることのできない背面側から、脊髄の中に注射をされるというのは、また別格の恐ろしさがある。
三上先生に「すごい汗かいてますね」と笑われながら検査を受ける。

ちなみに検査は1泊となる。脊髄に注射すると急に気分が悪くなったりすることがあるのだそうだ。

そして検査の結果が下の写真だ。

第5頚椎〜第6頚椎のあいだの椎間板が痛みきって、骨が変形し「骨棘」となって右の神経根を圧迫している。第6〜7の間にもヘルニアがある、と。
年齢の平均より、だいぶ劣化が進んでいるらしい。

「ああー、この歳なのにこんな骨に……」と、コメントへわずかに憐憫のニュアンスが見え隠れする。

そして「首の骨がちょっと後弯気味ですね」とも。

 

思い起こせば、首は昔から弱点だった

実はこれは前に別の医師に言われたことがある。
あれは結婚してすぐなので、30歳過ぎの頃だろうか。
風呂上がりに力いっぱい首を振りながらタオルで髪を拭いていたら、突然、ありえない激痛に首が襲われ、1ミリと動けなくなり、這うようにして家族の車で救急に運ばれたことがあった。

そしてレントゲンを撮って医師に言われたのが「あなたは首の骨の湾曲が弱いタイプ、いわゆる『ストレートネック』だから、痛めやすいよ、気をつけなさい」と。

首の骨が湾曲をうまく保っていないと、何かと痛めやすいらしいのだ。
思えばかなり前から、左を見上げたときだけ首が痛かったので、ずっとヘルニアではあったのかもしれない。

にも関わらず、ヘルメットみたいなのをかぶってボクシングごっこしたり、首を後ろにそらして自転車漕ぎ続けたりと、やっちゃいけないことをやって、とどめを刺した形になったのだろう。
40代にもなったのだし、もう少し思慮深く運動の種類を選ぶべきだったのかもしれない。

見返すと、受けた遺伝子検査にも書かれていた

そしてこの首の形ゆえ、僕はちょっと衝撃的なことを告げられることになる。

「この前弯の弱い形だと『頚椎前方除圧固定術』が術式となります。気道にダメージが生じた場合に備えて、集中治療室のある大病院じゃないと手術ができないのです」と。

 

低侵襲? What!

実は僕は手術はもっと軽く済むものだと思っていた。
僕も僕なりにまともな本を買って勉強してみたりして、いろいろな術式があることを知ってはいた。(↓この本)

僕の症状「神経根症」の場合、筋力低下が起こらなければ手術の必要はないことも多いこと。手術には最近は低侵襲型の手術もあり、短い入院期間で済ますこともできること。

我慢して仕事を続けることもできなくはないし、日常の暮らしもできる。
しかし、ジョギングも登山もできず、健康指標は悪化していく。さらに急激な悪化がまた来るかもしれないと不安なまま暮らすのは避けたかった。

だから症状の軽いうちに手術を受ければ、手術も軽くで済むだろう。そう軽く考えていた。

しかし医師から伝えられたのは、侵襲の度合いの大きい「頚椎前方除圧固定術」という、最低でも1ヶ月は仕事を休まなければならない最も大がかりな術式だった。
なんでも僕のように前弯が弱いタイプの人は、後方から手術しても治療成績が悪いのだそうだ。はっきりとした治療成績を望むなら、ガッと首の全面を切り。気道をかき分けて頚椎に到達し、病変部を削ったあと人工骨を埋め、プレートとネジで首の骨を固定する必要があるのだという。
しかも僕の場合、第5-6間・第6-7間の2箇所を同時にやらないといけないので時間がかかり、気道への負担も大きくなるのでどうしても集中治療室を備えた大病院になる、と。

それまで「低侵襲の術式でできたらイイネー」と甘く考えていた僕と家内は、三上先生の説明を聞いてしばし言葉を失った。
唾を飲み込む音だけが病室に響くような沈黙だった。

 

5日ほど考える猶予があり、僕もいろいろ考えた。
仕事を1ヶ月休むことなんてそもそもできるのだろうか。以前のプレートを埋める手術で術後感染を起こしたので、それを思い出すと怖い気持ちがある。
二宮先生と同じく、三上先生も最初は保存療法を勧めてくれた。医師から見たら手術のリスクを取るほどの状態ではないのかもしれない。

でも何度か考えても、僕には手術を選ぶ方が賢明な選択肢に思えた。

ここ2年の悪化ぶりを思い出すと、どうしても自然治癒する見込みは無い気がする。もう1年ジョギングも登山も我慢して良くならなかったら、大切な40代後半を1年捨ててしまうことになる。

また、50代、60代になってさらに悪化してから手術に臨むより、45歳の今のうちにせめて悪化を食い止めておくほうが賢いように思えた。

というわけで僕は「手術する」の選択肢をやや迷いつつも選び、三上先生に大病院への紹介をお願いすることにした。

 

masayukilab.hatenablog.jp

 

笑点新メンバーは……(大予想4/1)

 

 

なるほど。
このアンケートでは桃花師匠が人気だ。
しかし僕は、アンケート3位の小痴楽師匠が本命だと確信している。
以下、理由を簡単に書こう。

①落語が抜群に上手い人しか出ない

これが最大のポイントなのだけど、たい平以降に加入した4人の新メンバーは全員が抜擢真打、つまり頭二つ三つも抜けて落語の才があった人ばかりだ。(林家三平を除く)一之輔も「笑点を通じて興味を持った人が落語を面白いと思ってくれれば、と思い引き受けた」と話している。つまり落語界の広告塔としての役割を担うことになる。
しかし宮治以降の抜擢真打は、いま披露興行を行っているばかりの林家つる子・三遊亭わん丈となり、ちょっと第一候補とはならない気がする。

一之輔・宮治以降で、抜擢真打クラスに落語が面白い人は誰か。

柳亭小痴楽だろう。

わさび師匠も面白いが、小痴楽師匠のほうが一枚上手のように思える。
桃花師匠は、まあ。2代目木久蔵は……。

 

②バラエティ慣れしている人がのぞましい

笑点」の大喜利はもちろん素でやっているわけではなく、進行台本のあるバラエティ番組だ。そうすると、すでにラジオやテレビでレギュラー番組を回している経験がある人の方がよい。

小痴楽師匠はNHKラジオで1年ほどレギュラーを回している。経験は十分だろう。

 

③各協会のめぐり

宮治のときは、三平(落協)→宮治(芸協)だった。

次の一之輔は、楽太郎(三遊)→一之輔(落協)。

芸協、落協ときて、次のメンバーはどちらかと言えば芸協かなという気がする。
するとやはり第一候補は芸協の小痴楽。
ただ、すでに芸協のメンバーは昇太、小遊三、宮治と3人もいるので、4人にはならないかもしれないから、確実な根拠であるとは言えないかもしれない。

以上によりぼくは「新メンバーは小痴楽」と予想しているが、抜擢真打に狙いを定めるなら、わん丈かつる子となり、そうなれば若手大喜利に出ていたつる子だろう。
つる子は顔芸も抜群にうまく、テレビで流れるのに向いている。
(真打披露興行中に笑点収録というのはものすごいことになってしまうが)

 

発表は4/7。

柳亭小痴楽 ○林家つる子

これで桃花師匠だったら僕は一から落語鑑賞の勉強を出直す。
わさび師匠か昇也師匠だったら、まあしょうがないかなと思う。
それ以外だったら、腹を切って「御前〜」と叫びながら旦那様にお詫びいたします。

寄席メモリーズ 2024新春

1月

浅草東洋館1月初席

落語ファンをやっているからには1月初席は欠かせない。

浅草までひょいと電車に乗って向かう。

大好きな天どん師匠、ギリギリの人が出てきた危うさが魅力だと思うのだが、この日は客席の温まりが想定以下だったらしく、「どうしたんですか皆さん!何があったんですか!」と、珍しくうろたえる芸風を見せていてオオッっとなった。

 

末廣亭1月下席

鯉八師匠がトリ。

若手(だった)ユニット「成金」メンバーのなかでも異彩を放つ新作派、伯山ラジオでもよく名前が挙がり、一度見てみたかったので向かう。

 

演目「鯉八女学園」。

師匠の鯉八ワールドは「言語化できない独特の世界」と聞いていたが、マクラから本編へのつながりといい、繰り返されるモチーフのたたみかけといい、奇想天外の素晴らしいネタだった。

他にも成金メンバー柳雀の「疝気の虫」は仕草がダイナミックで良かったし、不名誉な「落語が不自由」と噂されてしまう小笑さんも、初めて聞いた普通にうまくて面白かった。

「成金」は何と力のあるユニットであることだろうか。
1月の寒い夜だったが、向かった価値が大いにある会だった。

 

鈴本演芸上1月余一会(一之輔独演会)

一之輔「長屋の花見」「蛙茶番」「花見の仇討ち」

安定の一之輔クオリティ。
色物で出てきたシルヴプレも大変良かった。

余談だが、落語を見に行き始めてから、初めて人に取ってもらったチケットで行った会だった。落語仲間が増えた喜びを感じる。

 

2月

神田伯山独演会(伯山プラス)

伯山プラスはチケットもプログラムもノボリも無いので、何一つとして記録物が残らないのが少し寂しい。

物販大好き伯山による、物販を買わせようという戦略なのかもしれない。

伯山「出世浄瑠璃
琴調「幡随院長兵衛 芝居の喧嘩」
伯山「雨夜の裏田圃

 

3月

浅草演芸ホール3月上席前半

伯山が中トリで出ていたのでシュッと向かって聞いてくる。

演目は「阿武松

伯山得意の「本来40分かかる話をギュギュギュッと詰めて……15分で(笑)」のパターン。

このトリでは無いときの伯山もすごく僕は好きで、話のヤマが高密度で畳み掛けてくる高揚感がものすごく、伯山を初めて聞いた「扇の的」のときもそれでやられたのが今ならよくわかる。

以前から注目していた前座・空治さんが二つ目昇進ということで、めでたい会でもあったが、この期間、トリの圓輔師匠92歳が最後まで話を語りきれなかったという事象も起きたらしく、伯山がその件をラジオで熱く語っていた。涙なしでは聞けない神回だった。

僕が行ったのはその翌日。

ラジオを聞いて、あらためて寄席という劇場と同じ時代を過ごせていることが素晴らしいことだなと感じた。

 

上野鈴本演芸場 三月下席・林家つる子真打披露興行

この半年、これを楽しみに生きてきたと言っても過言では無い、林家つる子の昇進披露。春風亭一之輔以来12年ぶり、しかも女性初の抜擢真打という鳴物入りの興行だけのことはあり、前売りは続々と売り切れだった。

華もあるし芸もある、圧倒的な演技力と構成力で観客を自分の空間へ引き寄せる力がすごいので、未見の人は一日でも早くこの人の落語を見に行くべきだと思っている。

そしてこの日の顔付けは、寄席の興行としても素晴らしい日だった。

大好きな天どん師匠。この日はつる子を祝って出し物は「つる」。玉の輔師匠もつる子の寿ぎで、出し物は「つる改」
安定の一之輔、絶好調の馬風師匠、そして6代目小さん。

正直、小さん師匠は池袋で何度か見たけれど評価△な感じだったのだが、この日の「長屋の花見」はめちゃくちゃイケてた。披露興行で満員御礼だと気合いも違うのだろう!

同時昇進のわん丈。「喪服キャバクラ」
昨年、浅草の余一会で見たとき、こんな面白い若手がいるのかと目が覚めるほど驚いたが、この日も絶好調に面白かった。今回の興行はつる子をまず押さえたが、やはりわん丈も行かねばならんなと奮い立たされた。天どん師匠の口上も聞けるし。

トリ、つる子は「しじみ売り」。
志の輔師匠のCDでしか聞いたことがなかったが、つる子師匠の手にかかって、新星のような輝きを放つ作品に仕立て上げられていた。この人が真打になってこれからも寄席に出続けてくれると思うと胸が高鳴る。

落語を聞き始めて4年目になるが、今年もますます楽しめそうな1年になりそうだ。

寄席メモリーズ2023 秋冬

11月

さん喬・喬太郎親子会

落語家のホール公演には、共演者の関係に応じて「独演会」「二人会」「親子会」「一門会」などあるが、この日は初めての「親子会」。

渋谷の大和田さくらホール。

今年は1月の「喬太郎・三三」から始まり、かなり集中的に喬太郎師匠のもとに向かった1年間だったが、いちども同じネタに遭遇しなかったのはすごい。

この日も「新作一本、古典一本」の安定した構成。

 

 

12月

真山隼人独演会@浅草木馬亭

伯山が関西浪曲の新星・真山隼人さんの芸を絶賛してたので、いつか生で見たいと思っていたのだが、ちょうどこどもと浅草に行った日の夜、絶妙な時間のスキマが生じ、ふと木馬亭を見たら「真山隼人独演会」の文字が。

一幕でもいいからと思い、当日券で飛び込む。
噂に違わぬ素晴らしい芸を観に浴びることができて幸せな40分だった。

写真は「馬賊」のラーメンと、ポケモンGOフェスタ。

 

 

超歌舞伎@歌舞伎座

仕事で中学生を引率して歌舞伎座へ。

奇しくも歌舞伎座史上初のスーパー歌舞伎公演(主演:中村獅童)が行われており、なかなかない記念碑的な興行に巡り合うことができた。

貸切公演の回で、客席はKADOKAWAの社員さんとウチの中学3年生のみ、という絶妙にアンバランスな組み合わせだったが、獅童さんがばんばん盛り上げてくれて最高の公演だった。

伯山がラジオで言ってた「音羽屋!」と掛け声を喋るペンライトも買えた。

獅童は「HR」の頃から大好きな役者だが、ますますご贔屓の気持ちになった。

 

 

末廣亭12月中席

そして歌舞伎座からの末廣亭。重厚な1日である。

伯山がトリだったのだが、チケットぴあの発売開始から秒速で席を押さえたため、2列目という超好ポジションで鑑賞することができた。

松鯉先生は「扇の的」

文治師匠は「親子酒」

遊馬師匠は「百川」

人間国宝および人間国宝級の師匠がたの芸をこんなに間近に浴びることができることに感激がやまない。

伯山は「神崎の詫び証文」。いつか生で聞きたかった演目の筆頭だったので、とうとう聴くことができてほんとうに嬉しかった。

 

 

古久保-徳永研究室のこと

先日、僕の恩師である古久保-徳永 克男先生の退官記念パーティーが開かれた。

 

実はコロナ流行直前に先生は退官されているので、4年越しの念願が叶っての開催となる。先生も元気に喜んでくださって、本当にいいパーティーとなった。

僕は卒研生として1年間だけの在籍だったのだけど、今の自分と切り離すことのできない大切な示唆を得た時期だったように思う。

その頃のことを書き残したい。

 

古久保研(Lab.KFT:Katsuo Furukubo-Tokunaga)とは

古久保-徳永 克男先生は、ショウジョウバエの神経発生学を専門とされている。

スイスにある大学でヴァルター・ゲーリングという世界的に有名な生物学者に師事したのち、僕の母校である筑波大学に研究室を開いた。

ゲーリング博士は、今や高校の教科書にも載っている「ホメオボックス」を発見した伝説的な生物学者である。大師匠が世界的な著名人というのは、頭ゆるゆるの生物学生だった僕に不思議な高揚感を与えてくれた。

 

そんなスイス帰りの古久保先生からそよそよと漂うソフィスティケーテッドされた風は、一味違う雰囲気を当時の学部内に吹き込んでいた。

生物学の持つちょっと泥臭いイメージとは全く無縁の、すっきりとしたラボの中にはMacintoshがたたずみ、先生はメールソフトのEudoraをドイツ語読みで「オイドラ」と呼んだ。

先生のオフィスには共焦点レーザー顕微鏡で撮影された画像がシンプルモダンに飾られており、そこで開かれる週に1回のセミナーのときにはラボメンバーの中央にハンドドリップのコーヒーに満ちたサーバーが涼しげに置かれた。

ちょっと記憶の改変もあるかもしれないが、とにかく上質な空間であったことは確実だ。

 

なんで私が古久保研に?

そんな洗練された研究室に、何で僕のようなトリあたま学生が迷い込んでしまったのか今でも不思議な気持ちになることがある。

大学3年生当時、僕は生物学との倦怠期で、すっかり文学や教育学の方が面白くなっており、どのラボを見ても研究に全く興味が持てない閉塞した時期だった。

系統分類学を学ぼうとは思ったのだが、狭い領域の未記載種や未詳の動物群を研究することに興味が持てず、さてさてー……と思いながらふと目を向けた古久保研の研究内容はたいへんにエキサイティングだった。

脊椎動物無脊椎動物の遺伝子の共通性に目を向けつつ、脳や神経、学習に対する遺伝子の影響まで視野に入れている。広い視点に立つその研究的な鮮やかさは、枯れかけた理学への興味にふたたび火を灯してくれるような科学的冒険性に満ちていた。

しかし僕は4年生になる前に教員になることを決意してしまったので、深い研究生活に入ることはなかったが、先輩たちの研究発表を毎回興味深く聞けたので、間違いなく最善の選択をできたと思っている。

 

日雇い的研究生活

院生時代も含めて、僕の学生生活の最大の反省点は、自分での研究テーマ設定がからっきしできなかったことである。

研究室に所属するも、基礎的な知識が全く不足している僕を見て「加藤君は勉強が足りない……」と嘆息しながらも、先生は研究テーマらしきものを与えてくれた。スクリーニングという、まあとにかく面白そうな挙動をする遺伝子が無いか、ひたすらにハエの卵を染色して観察し、探しまくるという、土方的な作業である。

ラボに入れば自然と手持ちの文献とか増えるのかしら?と思っていたのと裏腹に、1年間ひたすらハエの卵を染め続けた僕の本棚には何一つ文献は増えなかった。そのかわり、ショウジョウバエの飼育ビンを洗ったり、エサビンを作ったりするとアルバイトのこづかいがもらえたので、それは一生懸命やった。

退官パーティーで先生は「まあ加藤君は、真面目にやってたよね」と、当時のことを回顧してくださった。確かに半熟卵のようにぐでっとしていた3年生の頃と打って変わって、毎日せっせと研究室に通い、先輩に可愛がってもらいながら暮らせていたので、あれはテーマと仕事を与えてくれた先生のおかげだったと思っている。

 

魅力的なメンバー

僕は大学院からは教育学に専攻を変え、理学の道を離れたのだけれど、何のかんので話を聞いてくれる先輩がいる古久保研究室(Lab.KFT)に顔を出すことがきわめて多かった。

Mr.古久保研といって誰もが認めるのが(それは古久保先生ご本人なのではないかというツッコミはさておき)、いまは国立遺伝研の広報をされている来栖さんである。

www.nig.ac.jp

兄貴分肌の来栖さんから見ても、いじり回しやすい後輩が入ってきたのは面白かったらしく、あれこれとよく遊んでくれた。しょうもない僕にびしっと言ってくれることも多々あり、「お前は年上の人が自分を助けてくれて当然と思いすぎてるんだよ!」と言ってもらえたときは、自分の至らない側面をハッと自覚できたのを鮮明に覚えている。

その他後輩でも、さっと検索しやすいところだと、諸般の事情でテーマは生殖細胞ながらも同じ部屋にいた林さん(現・筑波大学助教)、いまは国土交通省で活躍する戸谷さん、また古久保研の後の時代においてキーパーソンになった本庄さんなんかがいて、学生らしく遊びながら楽しく過ごすことができていた。

朝日新聞デジタル:港湾系70事務所で初の女性所長 - 山口 - 地域

林 誠 (Makoto Hayashi) - ショウジョウバエ始原生殖細胞における遺伝子量補償の欠如による生殖系列の性決定機構 - 講演・口頭発表等 - researchmap

ショウジョウバエを使って私たちの痛みの謎に迫る ~痛覚神経機能に重要な遺伝子を多数発見~(2016.06) – COTRE(コトリ)|COmmunity of Tsukuba REsearchers

 

古久保先生は、ご自身の海外研究生活を振り返って「パーティーをしているか研究をしているかのような生活だった。そして素晴らしい成果はどんどん出た」と思い返されていた。

いい成果は、まずみんなが居たくなるような場から、という哲学を僕も身に沁みて学ばせてもらったように思う。

 

「うまくザイルは伸びるか」

古久保先生は登山が趣味で、山のことを時折話される。山岳装備で雪の中にいるときの写真を見せてもらったこともある。(そして滑落して死にかかったこともある、と言っていたような気がするが、ここは記憶があやふや)

先生は物静かでクール、村上春樹の小説の主人公が飛び出してきて目の前にいるような雰囲気の方だが、退官パーティーではいろいろと思いを語ってくださった。

学生だった頃、登山のチームを組む際に、各々の技量もさることながら、チームのメンバーが普段から飲みに行き、コミュニケーションを取れているかが大きなファクターとなるのだという。そういうところがうまくいかないと、いざというときに「うまくザイルが伸びない」のだと。

先生はチームワークやコミュニケーションのことをあまり口に出さないイメージだったので、OB/OGはちょっと意外だと思うと同時に、穏やかな眼差しでラボの学生を見てくださっていたことに胸が熱くなった。「うまくザイルが伸びない」。先生らしい、深みのある言い方が心に残った。

 

 

パーティーでは、多くのOB/OGの活躍を聞くことができて、大きな刺激になった。

最近ぼくはミドルエイジ・クライシスそのもので、人生も仕事も折り返し地点をむかえた自分を受け止めきれていなかったのだが、それぞれの場、新しい場で活躍するメンバーの話を聞いて、再び奮い立つ気持ちを手にすることができた。

人生が吹き溜まったときに、いつでも風通しの良い窓を開けてくれるLab.KFTに所属できたことは、僕の人生において欠かすことのできないピースだったと思っている。