まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

数奇な猫の最期と、干物を焼いた日のこと

もう3年ほど前になるが、実家のマンションで飼われていた猫が13年の命を終えた。

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亡くなる数日前。当時2歳の長女とともに。

学生時代からアパートで幾多の猫を飼い、さまざまな生涯を見てきた僕だけど、この猫の生涯は数奇であったなあ、と思うところがあるのでちょっと記録したい。

叔父と猫の別れ、祖母からの受難

猫が飼われ始めたのは、かつて東京にあった僕の生家だ。
築何十年という古い古い昭和家屋である。

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祖母と独身の叔父(いわゆる「子供部屋おじさん」)が二人で暮らしていたところに、いとこが拾ってきたらしい。

子の無かった叔父はこの猫をたいそう可愛がり、ミーコ、ミーコと呼んで溺愛していた。エサも相当にいいものを食べさせてもらっていた。

何歳になっても口うるさい祖母(いわゆる「毒母」だった)に辟易としている中、家での生活を唯一明るくしてくれた存在だったのだろう。

 

その叔父が平成21年に63歳で急逝する。
たぶん、心臓か脳か、その辺の異常が突発したのだと思う。

 

@nifty:デイリーポータルZ:叔父の遺品を紹介します

 

結果、猫と祖母だけがぽつりと古い家に残された形になった。

ネコちゃんは息子の形見として、大層おばあさんに可愛がられましたとさ……となれば美談なのだが、現実はその全く逆で、えらく邪険に扱われることとになった。

祖母は大の動物嫌いだったのである。

布団に入っては「この猫め!」と追い出され、エサはしらす干しやカリカリを適当に与えられるだけ。ネコとしてはこの時期は、ヘブライ人並みに大いなる受難の時代であったと言えるかもしれない。

一度、祖母の家を掃除しに行ったら、はみ出した餌が餌場の周りに層を成して大変なことになっていた。祖母の家事能力もだいぶ衰えていたし、仕方のなかったことなのかもしれない。

それから3~4年ほどして祖母も老齢の限界を迎え、施設に入所することになったため、猫はうちの両親がマンションに引き取ることになった。

 

干物を焼いた日

秋の日。
祖母も叔父もいなくなり、空き家となった生家に、猫を引き取りに行った日のこと。

どこを探しても猫がいないのだ。

古い昭和家屋であり、最大で家族10人が同時に住んでいた家である。押入れ、家具の下、天井裏、隠れる場所には困らない。

こちらも0歳から生まれ育った家、壁のシミ一つに至るまで覚えている。プライドに賭けて負けられないと、記憶・経験、振り絞って探したのだが、気配すら感じられなかった。

遅れて到着した兄も一緒に探したのだが、何の成果も得ることができず、二人で相談の結果、干物を焼いてみることにした。

子供の頃、お使いによく行った魚屋に向かい、アジの干物を2枚手に入れる。
もう何十年も立っていなかった祖母の家の台所、子供の頃に遊び回った台所に立ち、グリルでアジの干物を焼いた。焼け焦げた煙と魚の匂いが、幼い頃の記憶を刺激するかのように強くたちこめる。

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結局、それでも猫は出てこなかった。

干物は、熱いうちに兄と二人で食べ、僕はビールを飲んだ。
そしてテレビをつけ、2時間ほど兄と取り止めもない話を続けた。

夕方になり、今日はもうあきらめて帰ろうかという時間になったとき、階段の上から猫がニャーと鳴きながら降りてきた。

干物の余りをあたえると、あっというまにしゃくしゃくと食べ終え、用意したケージにするりと入り、猫は僕の両親のいるマンションへと連れられていった。

 

祖母、父との別れ

祖母はそれから2年ほどで亡くなり、何だかんだで溺愛していた父もその5年後に亡くなった。それから1年して猫自身も亡くなり、一生のうちに3回飼い主と死別した猫の生涯は終わりを告げた。

 

あの秋の日、猫は干物の煙の匂いを嗅いでも出てこずに、いったいどこで何をしていたのだろうか。

思い出す。まるで人生のなかから切り取られて浮遊したような1日だった、兄と二人で干物を焼いた日のことを思い出す。