まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

僕は記憶のカプセルになりたい

“雨ざらしなら濡れるがいいサ だってどうせ傘など持ってねェんだ
 時が来たなら終わるもいいサ それが俺の最後の運命だったら”


earstern youth『雨曝しなら濡れるがいいさ』

 

10年前、僕は死ぬことにあまり興味がなかった。
子供もいない、持ち家も財産もない。
このまま記憶と感覚が消えても、残した文章と写真が僕がいたことを物語ってくれる。
あとは一条の煙のように風に消え去り、それでいいだろうと思っていた。

そして今。
僕は死を、可能な限り遠ざけたいと思うようになっている。
子供が幼かった頃の記憶を失いたくないからだ。

子供ももう6歳になり、乳幼児期にあった全力100%の無邪気さは徐々に無くなってきている。
今思えば3歳ごろが最高潮で、言葉をどんどん喋り始めた時期の

「あー、その言い方、惜しい!」
「え!もうそんな言葉使うの!?!?」

的な驚きは何にも代え難い面白さがあった。


Facebookの非公開でもよくメモしていた(たまに公開範囲を間違えると恥ずかしい)

 

その思い出だけでも十分に面白いのに、iPhoneがまた、その頃の写真をいいタイミングでサジェストしてくるのである。
一枚一枚からあふれ出る思い出が止まらず、うっかり30分ぐらいニヤつきながら、記憶を舐め回すように写真を延々と見入ってしまう。


この記憶を失いたくない。

死、とは言うまでもなく意識、つまり記憶と感覚が消失してしまうことである。
たとえこの身から感覚が失せても、この世界で僕とカミさんだけが保有している、子供が乳幼児だった頃の記憶が、死によってこの世界から消え失せてしまうことが耐え難いのである。


藤子・F・不二雄の短編に『おれ、夕子』という作品がある。

中学生の娘を亡くした科学者が、亡くした娘の人格と身体を細胞改変によって蘇らせる、というストーリーなのだが、その最後に、父親が娘と在りし日の思い出に浸り涙するシーンがある。

中高生の頃はふーんと読み飛ばしていたシーンだが、今の僕にはこの父親の気持ちが分かりすぎる。
そりゃ人の道を踏み外しそうにもなるよね、わかるよ……、とこの文章を書きながら思わず涙してしまう。
6年前、雪の降る夜に病院で生まれたその日から、連綿と続く記憶の代え難さ。
これがいつの日か消失してしまうのか、と。

 

とはいえ、現実に僕の意識はいつか消失してしまうので、その対策として考えているのは「記憶のカプセル化」である。
あと30年もすれば情報科学の発達により、ヒトの意識も再現できるようになるだろう。
そうしたら僕は記憶のかたまりになりたい。
子供が幼かった頃の甘美な思い出だけが繰り返しされる意識体「記憶のカプセル」となり、大空へ打ち上げられて、永遠に宇宙を旅したい。


火の鳥・宇宙編

 

しかし、数十億年も意識が続き、記憶が再生され続けるというのも空恐ろしいものがある。
いつか、この娘の記憶も、保存とかされずにやっぱりこの世の煙となっていいかなと思う日が来るのだろうか。孫が生まれたときとかだろうか。

 

いつのことだからわからないが、今日も娘は、幼稚園であそんでいた「ぽっくり」を引っ張り出して、「ぽっくりけいびたい でーす!」と無邪気に叫びながら家の中を歩き回り元気である。

 

煙になっていいと思える日は、しばらくは来そうにない。