まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

足首骨折・入院記録⑤ プレート細菌感染・後半

■その1→【足首骨折・入院記録①初日~3日目 群馬での入院

■その2→【足首骨折・入院記録②4日目~8日目 手術までの日々

■その3→【足首骨折・入院記録③9日目~13日目 手術から退院まで

■その4→【足首骨折・入院記録④ プレート細菌感染・前半】

 

プレート抜去の終わった僕は、その後3週間の入院生活を主治医に命じられることになる。

「長い」
「ありえない」
「本当か……」

というのが率直な感想だったが、主治医の目が1回目のときより数段本気だったので、何も言えなかった。

 

体内に細菌感染が発生しているというのは、ただの骨折より数段やばい状況であるらしく、感染ショックが起これば容体急変から死に至ることもあるらしい。前の入院の時は術前に多少の外出も許されたが、今回の入院は完全に外出禁止である。

妻と1歳の娘、そして仕事の穴を空けてしまった職員室、すべてを置き去りにして僕は病院で3週間、茫漠とした時間を過ごすこととなった。

 

その時の記事はこちら

 

3週間、いったいどのような処置を受けたのかといえば、1日3回、8時間ごとの抗生物質を点滴されること

基本的にはそれだけである。僕も「これ、アパートから近いんで1日3回受けに来ますから、通いでなんとかなりませんか……?」とダメ元で言ってみたのだが、言ったとたん主治医の目が仁王像のようになったのですぐさま前言撤回し、それ以上の発言はやめにした。

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あきらめて点滴、点滴、点滴、の日々
真夜中の血だらけ事件

朝6時、昼2時、夜10時。
1日3回、星辰の進行のように規則正しく点滴を受ける。

夜の10時が不思議だ。
病院は夜の9時に消灯なのだが、消灯後、真っ暗になった1時間後、看護師さんがそうっとカーテンを開けて「失礼しまーす」と入ってくる。
ごく一部を限定的に切り取って解釈すれば色っぽい雰囲気もないことはない流れだが、実際にはもちろん何もない。そのあと30分点滴を受けるだけである。

いちど、この繰り返しがあまりに暇だったので、夜の点滴が終わった後、管が抜かれる前に腕を上げ下げして管の中を血が行ったり来たりするのを眺めて遊んでいたことがあった。
そしたらいつのまにか血が変なところまでに吹きこぼれてて、看護師さんが大慌てになり、数人集まって「放置してすいません、すぐ片付けます!」と後始末してくれたことがあった。

もう5年経ったのでそろそろ謝ろうと思います。
申し訳ありません。
アレはいい歳して訳のわからないことをした、100%僕の責任です。
看護師さんすいませんでした。

 

ドレーンの袋を収納する、たったひとつの冴えたやり方

血と言えばもう一つ。

入院前半は、「ドレーン」という術部から血を吸い取るための謎の小袋をぶら下げたまま生活することにもなるのだが、これが絶妙に邪魔である。

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ドレーン。陰圧をかけて患部から汚れた血を吸い出す

これを収納するためのポシェットのようなものももらえるのだが、点滴の道具や松葉杖と絶妙に干渉するので、どうにも収納しあぐねていたのだが、ある瞬間ピンとひらめき、ジャージのパンツ裾を大きく折り返し、その中にしまうと生活がうまくいくことを発見した。

こんな便利な方法あるんだったら看護師さん早く教えてよー、ぐらいの気にはなったのだが、じっさい看護師さんが僕の収納を見て苦笑い気味に言ったのは

「そんなしまい方している人初めて見ました。あたらしい!」

というコメントだった。

昔からのことだが、僕が「いい発明した!」と本気で思っていたる工夫は、人に笑われることが多い。
だからデイリーポータルのライターに向いていたのかもしれない。

 

退院まで

ドレーンは1週間ほどで外され、骨もうまくつながってゆき、17日間でちょっと早く退院することが許可された。

主治医の先生は常に冷静沈着で、医師としての激務を笑ってこなす素晴らしい方であったが、僕が感染して再入院となったときだけは、さすがに落ち込んでおられた。
感染が起こる確率は高いものではなく、特に僕のように当時30代だった抵抗力のある人間にはあまりないので、起きてしまったのは先生としても意外中の意外であったのかもしれない。
僕の生活の仕方に問題があったのだとしたら、それは少し申し訳なかったと思う。

退院後、僕はもう装具はつけなくてもいいと言われ、走りはできないものの、歩くことに関しては難なくこなして暮らせるようになった。

次回は、それから5年後の今(2021年)まで、どのようなところまで運動や生活ができるようになったのかを書いてみたい。

masayukilab.hatenablog.jp

とうとう落語(というか志ん朝)にはまっている

ここ最近、ツタヤで古今亭志ん朝の落語のCDをひたすら借りている。
ちょっとしたきっかけがあってすっかり惚れ込んでしまった。

1月からずっと亡くなった叔父の遺品整理をぼつぼつしているのだが、そのなかに古今亭志ん朝のCDが1枚あった。
叔父の家まで高速で1時間ぐらいなので、「まー、これでも聴きながら帰るか」と思って車の中で聞いたら、これが素晴らしくて、すっかりはまってしまったのだ。

これまでも落語は聞いたことはあった。
寄席に行ったこともある。職場の芸術鑑賞で、校内寄席を開いたことも何度かある。冬は風呂であったまりながらYoutubeで一演目ぐらい聴いたりする。『昭和元禄落語心中』も大好きだ。
でもこれまで落語好き人たちの情熱を、正直ちょっと引き気味で眺めていたところがあったので夢中になるまでではなかったのだが、そんな斜に構えた気持ちを全部突き破るぐらいに志ん朝の落語はすごかった。

そのとき聴いた演目は『夢金』。真冬に雪の降る川で船を漕ぐ情景がありありと見えてくるような描写力、欲と正義感のはざまで揺れ動く心の機微を、絶妙な間合いと台詞回しであぶりだす表現力、とにかく全てが僕がこれまで聴いたことのある落語とは別次元のように思えた。

そこからかなりの量の志ん朝の噺を聴いたが、どれもこれも「こんなに完璧な一人芝居が世界で他にあるのだろうか?」という気持ちにさせられる素晴らしい出来だった。

不幸にして志ん朝さんはまあまあに早世されているので、音源の声が若いのもよい。名人だ国宝だという老人の落語も聞いてみたが、一人芝居である以上、どうしたって声の表現力が豊かな若い時期に比べ完成度は劣る。

そして同じ噺で志ん朝と別の落語家さんのを聴き比べても、やはり志ん朝の方がいい。
張りのある声質と流暢で歯切れの良い江戸弁。演じ分けの徹底的なうまさ、細やかな語彙の良さ。
江戸の世界がそのまま切り出されてきた空間が眼前に現れてくような体験を、当時のお客さんたちはしたと思う。

ここまで聞いて、僕のおすすめは最初に書いた「夢金」そして「文七元結」「唐茄子屋政談」、あと笑える話では「明烏」あたりだ。

YouTubeだと有名な「芝浜」が出てくるが、登場人物が2人しかいないので、一人芝居の上手さや凄みを感じるにはもう2〜3人出てくる演目がいいような気がする。

どれも登場人物の抱える葛藤の描き出しがすごい。

レンタルとYouTubeで聴ける音源はほぼ全部聴き終えてしまったので、次に手を出すとしたらDVDである。
大人向けなのでさすがに高いのでけれど、久々に夢中になったものなので、これは買ってもいいかもしれない……。
「ぐずぐず言ってねぇで買っちめぇよ!」と僕の中の小悪魔が江戸弁でささやいている。

加藤家の世界線、概念としてのプリキュア

5年前、子供が生まれたとき、

「もし今後、家の中では僕が創造した人造言語だけを使うようにしたら、この子はその言語のネイティブ話者になるのだろうか?」

などとくだらない妄想をしていたものである。

 

実際そんなことはもちろんしてないわけだが、そこまでの程度ではなくとも、子供(特に保育園に行っていない長子)にとっては、親が生活の全てであって、親が選んでいる生活のスタイルがそのまま子供の「世界線」となる、というのはあると思う。

 

この点、加藤家で顕著なのは、両親共に民放を全く見ないという生活スタイルであることである。

僕はヘビーなNHKファンで、民放は年に1回箱根駅伝を見るだけで、あとはずっとNHKだけを熱心に見ている。
かみさんはそもそもTV自体ほぼ見ない。僕がNHKのニュースを見ているだけで「うるさい」と怒ることすらある。もちろんYouTubeも見ない。

というわけで、うちの子供はそろそろ5歳半になるが、TV=NHKという世界線で生きており、好きな番組は「ダーウィンが来た」「ムジカピッコリーノ」「京も一日陽だまり屋」「ブラタモリ」という、生粋のNHKっ子に育っている。

 

しかし、不思議なのは、にもかかわらずプリキュアが大好きなことである。

 

もちろんプリキュアのアニメなど1秒も見たことがなく、プリキュアがアニメであることや、プリキュアをテレビで視聴できることなども含めて、全く知らない。

それなのに幼稚園でプリキュアの存在を知って興味を持ち始め、キャラの名前を覚えて「キュアフォンテーヌだいすき」とか言い出し、プリキュアのプリントトレーナーを欲しがったりプリキュアショーに行きたがったりするのである。アニメの存在にすら気付いていないのに。

さらにこの春にはとうとう「4月からプリキュアが新しくなるんだよね。幼稚園も流行りがあるからついていくのが大変」などといっぱしのことを言い出した。

いや、流行りも何も、そもそも乗ってないんだよプリキュアの流れに。君は。

 

いったい、彼女にとってプリキュアとはどのようなものと認識されているのだろうか。

 

なお、同じく「ラブパトリーナ」という存在についても「幼稚園でラブパトごっこした!」と意気揚々と報告してくれるが、彼女はそれが番組であることすら知らないのである。

いったい、どのようにして「ごっこ」に参加しているのだろうか。

無関心は体育のテストを変えない。

『とある「社会問題A」に関して、ある人の表す態度が「沈黙」「無関心」であった場合、その人は問題Aに対して強者の立場にいる人である。』

 

という原理を、根が深いなと最近感じることがある。

というのも、先日、中学生が人種差別問題についてプレゼンテーションをしたのだが、その発表に対するコメンテーターが全員ジャマイカ系の黒人だったので、「果たしてこのジャマイカ人達はどうコメントするのか?」とちょっと気になったのだが、そのコメントは
「この種の問題に対しては『触れない、沈黙を保つ』というのが賢いとされる中で、あなたの勇気あるプレゼンテーションに敬意を表する」
というものだった。

なるほど。日本にいると問題がさほど先鋭化しないので気にしないが、多民族・多人種国家では「沈黙が最良の選択肢」という現実が往々にしてあるのだな、と実感したのである。

 

いっぽう、最近の日本で荒れがちな社会問題「ジェンダーフェミニズム論」についても、そういうところがある。

上野千鶴子さんが
「自分の配偶者に沈黙・無関心を貫かせない、配偶者だけでも問題の場へ引きずり出す『一人一殺』が重要」
と書いていて、最初読んだときは、ずいぶん物騒なこと書くなと思ったものだが、ジャマイカ人の先生のコメントを聞いてからはちょっと見方が変わった。
確かに怒ってもまあまあ許される権利のある自分の配偶者ぐらいには「僕は興味ないから」と言わせたくないものである。

沈黙の態度といえば、かつて東日本大震災があったときのことだ。
東京に住む人のそれなりの割合が「心を壊されたくないので目を閉じ、耳を塞ぐ」という態度を表明していた。
一瞬、弱者が自分を守る選択をしているように聞こえるが、そうではない。福島の隣県で、停電や断水にそれなりに苦しんだ身としては、その態度を選べるだけで充分に強者の弁に思えたものである。
しかもそこで「悠長なこと言ってんじゃねえ!」と怒っても、「この人怒ってる!怖い!」と耳を塞がれてしまうので、意味がない。理解の壁がすごいのだ。

これはまさに、日本におけるジェンダーフェミニズム論の泥沼的停滞の構図そのものである。こうなっては確かに「一人一殺」から始めなければ、進展に向けて何のとっかかりも無いかもしれない。

 

主題は体育である。

僕は長年「体育のテストが諸悪の根源」という主張をしており、運動が嫌い/苦手だった人には激しく同意してもらえるのだが、体育の先生に言うと「そんなこと考える人がいるのか」ぐらいの返事になることが多い。説明しても「はぁ」といった感じである。

これも同じ構図だ。

これ、もしスポーツ/体育教育の方針を決める人がみな運動の得意な人ばかりだったら、問題が問題として認識されず、この問題はいつまでも変わらないことになる。

これはまずい。

というわけで運動が苦手な人たちはもっと「一人一殺」の気概を持って、「体育のテストは結果が周囲に知られることの無いよう人権に配慮し、全ての学校にテスト専用の個室型体育館を設置して、結果の秘匿性を確保しながら実施するべきである」と主張しなければならないのではないかと思う

読書レビュー『科学者の冒険』

それほど生物科学のニュースに平素から目を通していない人でも、「クジラとカバが同じ仲間であることが最近明らかになった」ことぐらいは何かの折に聞いて知っているのではないだろうか。

それを明らかにしたのが岡田典弘先生だ。筑波大学東京工業大学で研究されていた方で、SINE法という画期的な方法でこれまでわからなかった生物の系統を次々と明らかにした。

系統分類の研究にちょっと憧れがあった身としては神のような存在だ。

その岡田先生が書かれた自伝的著書がこの本である。

科学者の冒険

科学者の冒険

  • 作者:岡田 典弘
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本
 

これが本当にものすごい面白さで、久しぶりに本を読んで眠れなくなるほど興奮した。

RNA解析からキャリアを始め、魚類の系統樹作成に成功したのを足掛かりにして哺乳類の系統解析に進み、最後には天皇陛下の前でシーラカンスの解剖を実現させるという。

系統分類好き・古生物好きから見たら憧れのあまり失神してしまいそうな輝かしすぎる業績である。

はたしてそんな業績への手がかりがどこから始まったのか?

その興味深い問いに対して、自伝的である本書はひとつながりのストーリーとして答えを示してくれる。 

 

特に僕がふあぁっ!となったのは、1980年ごろの話で、サケのゲノムにある反復配列がtRNA起源であることを明らかにするくだりである。

ちょっと専門的になるかもしれないが、RNA解析で最前線にいた人間しか気づけないような細かい兆候を、大局的な視点で俯瞰して、その背後にある巨大な鉱脈を見抜き、みごと掘り当てたその流れには、読書で追体験するだけでも酔い痴れるような爽快さがあった。

当時は、この半年で急に有名になったPCR法もろくに普及していないような時代である。その時代にゲノム内にある反復配列の起源を言い当てたうえに、それ(反復配列の解析法)を新たな武器として持ち替えて生物学の地図をあっというまに塗り替えてゆく……、こんな華麗な業に憧れない科学者がいるだろうか?

 

さらに素晴らしいのは、著者の岡田先生がいまだに科学の新たな地平を切り開くということに果敢に挑戦され続けているという点である。

自然科学の研究者というのはまさに「山師」、どこかに埋まっている鉱脈を掘り当てなければならない職業なので、なかなか身を投じて挑戦的なテーマに挑んで行くということは難しいだろうと思うのだが、定年してなおその姿勢を失わない著者の姿には畏敬の念すらおぼえる。

もちろん姿勢だけではない。本の端端から感じ取られる生物科学への深い傾倒と知識。そのアイデアや発想を支えているのが、圧倒的な知識量であるということが疑いようもなく明白に感じとることができる。

知識に支えられた展望というのは、かくも芯の強い物なのか……ともう全く打ちのめされて、みずからの勉強量や実戦の乏しさをを恥じるしかない気持ちになってしまった。

 

と、ほめたたえまくってみた本書だが、読もうかなと思ったあなたが生物科学を学んだことがないのならやめておいた方がいい。具体的には「RNAスプライシング」「逆転写酵素」「電気泳動」あたりを即座に説明できないぐらいだとしたら、ちょっと辛いのではないかと思う。

最初、演劇に夢中になっていた話から、突然加速してRNA内の微量塩基成分の話になり、あっという間に読者を振り落とします
そのあとも誤植がまあまああって、「誤植だな」と思えるレベルにないと混乱したりするし、専門用語が前触れなく登場して生物科学の関係者以外を悉く振り落としにかかります

でもそんなこと全く関係ないぐらいに、生物科学を知る人にとっては本当に面白いので、強くお勧めしたいと思います。

一回も転ばなくても子供は自転車に乗れる。あと補助輪は悪。

子供(4歳前半)を自転車に乗せることに成功した。一回も転ぶことなく。

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僕は運動にまったく才能がないため11歳ぐらいまで乗れず、子供時代の自己抑圧的な性格を生む原因のひとつになったので、自分の子供が自転車に乗りおくれないようにすることは育児におけるテーマの一つでもあった。

そのため長年、僕なりのステップを考え続けていたのだが、それが見事に実を結ぶ形となった。うれしいのでちょっとブログに残したい。

どうやって乗せるのか?

僕のとった方法自体の大筋は、特段目新しいものではない。ここで細かく説明するより、この記事なんかを読む方がずっと実用的だ

https://iko-yo.net/articles/298
23時間で乗れる子どもも!補助輪なし自転車練習のコツ

 

11歳まで乗れず、乗れなかった頃の記憶が非常に鮮明な僕にとっては、とても当たり前のことだと感じる。大事なのはまず、バランス感覚を養うことなのだ。
しかし、こんな当然のことがいまだに世間に浸透しておらず、いまだに「自転車なんて転んで覚えるもんだ」式の練習が世の中に生き残っていることに悲しみを感じる。

正しい教育法は子供に自信を生み、自分の人生を切り開いていくチャレンジ精神を育てる。

変な教え方をされて人生をゆるやかにこじらせた僕としては、すこしでも正しい指導方法が世に広まってくれればいいと思う。

 

〜加藤家の場合〜 
①最初に何を買うか

選ぶ自転車だが、間違いなく一番いいのは

「へんしんバイク」http://www.henshinbike.com/

「ペダル脱着型ストライダー」https://shop.strider.jp/shopdetail/000000000039/

などの、ランニングバイクからシームレスにペダルつきに移行できるタイプのものである。
本当は僕もこれがいいかなと思っていたのだが、ともに20000円台と結構に高い。
迷っていたら近所のユーズドショップで中古のストライダーが3000円で出ていたので価格に負けてそっちを買ってしまった。

それでも大切なのは、リンクした記事にもあるとおり、平衡感覚を育成することなので、その部分では大差ないと思う。
いずれにしろストライダー系を安くても一つ買っておくと、乗れるまでの年数にそれなりの差は出ると思う。(エビデンスはないが)

 

②目標は自転車を漕ぐことではなく、「下り坂で足ハの字」をすること

乗れない子の最大の原因は「漕ぐ」と「バランスを取る」を同時にできるようになれと言われることなのではないかと思っている。

ちょっと自転車の歴史をひもとくと、最初はペダルつきの乗り物ではなく、ストライダーのように蹴って進んで遊ぶものとして二輪車は作られたらしい。
それがあるとき、下り坂なら足をつかなくてもすいすい乗れることに誰かが気づき、そこへペダルやエンジンを付けて、乗り物としての完成を見たらしい。

ということは下り坂ですいーっと下れれば、もう乗れるということなのである。
よって最初の練習は下り坂を下ることを目標とした。
なおそのとき足をハの字(はのじ)にすると、足をつかずに乗れる目標となる上、平衡バランスもむしろ取りやすくなるので、これを実戦的なハードルとして設定した。

こうして、

3歳前ぐらいに与えたストライダーで徐々に2輪感覚を育成しながら駆け回り、

 ↓

下り坂があるときに「ハの字でGO!」と一緒にやって見せながら練習させ、

 ↓

すすっと自転車に乗れるようにするぞ……

 

と目論んでいたが、実際、そう簡単には「下り坂で足ハの字」は達成できず、「まあまあできる雰囲気がするかな……」ぐらいで上達は打ち止めになってしまった。

なお、3歳ぐらいからストライダーで両足ウサギキックをかまし、ビュンビュン飛ばしている男子がいるが、あれはもう天性に平衡感覚が優れているタイプである。
あれができるということは、両足離しが何も意識せずともできるということなので、最初のひと漕ぎ目からいきなり乗れるタイプである。こういう幼児のことはここでは取り扱わない。

 

③いつ自転車を買うか。何を買うか。

これもみんな悩む問題だろう。
加藤家は事情により一度ここで挫折しかけたが、僕の工夫と努力により何とか切り抜けることができた。

買うのは10kg以下の軽量で、補助輪が無いタイプのものが良い。
へんしんバイク系を買っているならそのまま14インチで移行になるだろうが、身長100cmあれば16インチでもいける気がする。
そんな理想を持って4才の誕生日間際に自転車屋に行ったのだが、なんと子供が選んだのは12kgもある補助輪有りタイプのもの。
ここまで指導プランをそこそこ実現できそうになっていた僕としては、いちど家に帰り子供を説得しようと思ったのだが、諸般の事情でそのままそれを買うこととなった。

子供としてはこれはこれで気に入り、ガコガコと補助輪の音を震わせて爆走していたのだが、僕の心には「乗れないロードまっしぐら」の自分の幼少期が思い出され、心も割れんばかりであった。

そして久しぶりにストライダーに乗せてみると、補助輪自転車に乗る前よりも明らかに平衡を取るのが下手になっており、「俺のここまでの指導が無に……神よ……」と天を仰ぎ見るような気持ちになった。

補助輪は悪である。子供に「大人と同じ乗り物に乗れた!」という達成感を一時的に味わわせることはできるが、それは決して自転車上達のプラスにはならない。むしろ大きなマイナスになる。

余談だが、補助輪つき自転車を買うか悩んでいるときに自転車屋の店員が「大丈夫ですよ! 途中から補助輪を一個外すなどの練習でだんだん乗れるようになりますし」と言ってきたとき、「あ゛!?おまえそれでも自転車でメシ食ってる人間なのか?」と思わず食ってかかりそうになった。

僕は小学生の時に叔父にその練習をさせられたのが、アホみたいにコケ続けるだけでちっともうまくならず、自転車の練習をするのが大の大の大嫌いになってしまったのだ。
あの店員に自転車を売られる子供たちが、練習を嫌いになることがないことを切に願う。

 

④「達成感>挫折感」を保つ

幸いだったのは、子供が「補助輪があると障害物に引っかかりやすい。あと段差で空転する」という点に気づいたことである。

ここまでストライダーに乗り慣れてきた彼女にとって、明らかに走破性に劣る補助輪の自転車は不合理な乗り物に思えたのだろう。
その発言をきっかけに、補助輪は即刻で取り外してしまった。

そこから補助輪なしで一応乗せてみたが、まあ乗れることはなく、超絶極度の怖がりでもあるので旧来式の「転ばせる自転車練習」に果敢に挑戦することもせず、「ぐらぐらして怖い」と自転車に乗ろうとすること自体をやめてしまった。

僕はそれでいいと思う。「転んだ回数だけ乗れる」って一体なんなんだと。
大人でもそうだが『達成感>挫折感』であれば人は何でも楽しく取り組むが、『達成感<挫折感』になれば取り組むのがアホくさくなるものである。教育学用語で言うところの「学習性無力感」である。
旧来の自転車練習は特に『達成感<挫折感』になりやすく、僕もそれで練習させる気はなかったのでここで無理押しはしないことにした。

 

⑤「きっかけ」が来た!

それでも子供の「やっぱり補助輪をつけて欲しい」という頼みは頑として断り続けてきたのだが、初夏のある日、育児用自転車に子供を乗せて自然観察サイクリングに出かけたところ、「自転車に乗って出かけるの楽しいね!」と急に妙なポジティブさを見せたのである。

これはチャンスだ!と勝機を見いだした僕は、例の『足ハの字』理論をもう一度繰り出し、「ストライダーで足ハの字ができたら自転車に乗れるよ」と諭したところ、子ども自ら、眠っていたストライダーを引っ張り出してハの字の練習を始めたのである。

こうなったらもう、ゴールまでは一瞬だった。
ストライダーで「下り坂足ハの字」→「ウサギキック乗り」→「下り坂カーブ」ができたあと、ペダルを取り外して座面最低高にした自転車で同じメニューをクリアさせる。
本人が「ペダルをつけてやってみたい」と言い出したのでつけてみたが、ほぼつけた瞬間からスイスイである。
この間、約2週間ほど。

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ペダルなし自転車で、下りカーブ練習。(転ばせないように必死)

このペダルなしでやって、達成感の連鎖を作るのがポイントだと思う。
きっかけをうまくとらえて、いい連鎖が作れた。
最初は僕の自転車練習理論を半信半疑で聞いてきたかみさんも、この上達ぶりをみて多少は信じてくれたようだった。

もちろん転ぶ練習も必要なので、そういう練習もしたが、それは基本的にある程度乗れるようになってからでいいような気がする。だって普通は嫌になるし。

 

以上、僕なりの1年ちょいに及ぶ長期計画の下での自転車指導に関する記録である。
補助輪つき12kg自転車を買ったときは達成は無理かと自信を失いかけたが、体重50kgの女性でもハーレーに乗れるんだしと自分を励まして指導を続け、何とか達成できた。

これを機にこの子が、自分のできないことにも挑戦する気持ちを少しでも持つことができたらいいと思う。

行列のできない高校物理教員

教員として日々子供たちの学習に携わりその気持ちに寄り添っていると、蓋然的に、自分が中高生だった頃の気持ちも多少思い出しながら指導に当たることになる。

そして今となってはどうでもいいのだが、時折ふッと「ああ、おれ本当に数学ができなかったよなあ……」と悲しい風が胸をよぎることがある。
高校でビリだったとか、センター直前模試で30点ちょいしか取れなかったとか、そういうのを挙げればいくらでもあるが、何より自分が脱落してるなあと感じさせられたのは「行列」が1ミリたりとも理解できなかったことである。

 

「行列」とは旧課程では数学Cで履修されていた分野である。
通常、理系の人しか勉強しないし、いまは高校ではやらない。
カッコの中に4つ数字が並んでいて、それをなんか特殊な方法で足し算したり掛け算したりする不気味な分野である。

 

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周りの人が次々とこれを解きこなしていくさなか、僕は一人だけこの分野に立ち入ることすらできなかった。なぜなら、この数字の並びや規則がこの世界の何を表現しようとしているのか、さっぱり掴むことができなかったからである。

微分積分は、まあ、なんか分かる。速度が増えたり減ったり面積求めたりできて具体的だ。無限の話もぶわっとなったり、ひゅっとなったりする感じがする。
確率・統計は間違いなくよく分かった。こういう実体性があるものは得意だった。
ベクトルは最初意味不明だったが、座標とは別のやりかたで平面や空間を考える発想なのだと聞いて、考え出した人の気持ちがわかった。
三角関数媒介変数も、現実への応用が時折顔を出すので理解できないことはなかった。

 

しかし「行列」だけは何度学んでも、考え出した人の気持ちがわからない、何を表そうとしているのかの意図すら掴めない、理解の絶壁みたいな分野だった。
大学入試とかに際しては、そもそも数学全般ができなかったので、一つぐらい絶望的な分野が増えても変わりはなく、本番でもやっぱり出題されて予定通り全く解けなかったが、それでもまあ合格できた。

だがどうやら、行列というのは理学を修める上でいろいろ重要らしく、大学入学後も折に触れ顔を出してくる。(Wikipediaにも「行列の応用は科学的な分野の大半に及ぶ」と書いてある)
そこで僕も諦めてはいかんだろうとチャレンジ精神を発揮して、詳しそうな人に僕の根源的な疑問である「行列ってそもそも現実世界の何を表しているの?」と片っ端から聞いて回ったりしたのである。

だが、大体においてほとんどの人が「あれは本当は列ベクトルなんだよねー」と謎の言語を返してくるのでもっと分からなくなるのだった。なんか大学で習う言葉らしい。

こうして結局理解できないまま僕は理科の先生になり、あろうことか若手の頃などは高校生に物理を教えるようなことも何年か続いて、内心「行列のできない物理教員、か……」と、何か違法なことをしているかのような心理状態ですらあった。

 

ただ、そんな中、行列について一人だけ僕の腑に落ちる回答をしてくれた人がいた。

小学校の友達の中でも随一に理科と算数ができたコジマという友人である。
理数に抜群の才能を持ちながらも全分野の学問全てに幅広く教養を持つ、知の総合格闘技チャンピオンみたいな奴なのだが、30歳過ぎた頃ぐらいに飲みに行ったときに件の質問を投げかけたところ、

「行列は何も表してはいない。ただの計算様式だ。高校数学の中でも計算様式だけを習う特殊な分野だから、加藤のような知識の求め方をする奴は戸惑って当然だ。」

「なお、その起こりは連立方程式なんかを解く計算様式として導かれ、この様式を応用するといろんなことが説明できることが分かったことから有用であると見做されている、ぐらいの理解でいいだろう」

と即座に回答してくれたのである。

数学的弱者を救済してくれる素晴らしい回答である。
もし誰かからこの回答を高校生の頃にもらえていたら、変なところで立ち止まらず開き直って行列を学ぶ覚悟ができていたかもしれない。

とはいえ、それからのちも特に学び直していないので、僕はいまだに行列ができない理科教員なのだが、それでも子供に理科を教えるときには、正論だがやる気の起こらない話をするのではなく、正論ではなくともとも学びの入り口に向かいたくなるような、そんな教え方をしていきたいものだなあと、行列の記憶を思い出すたびに想いを新たにしている。