まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

無関心は体育のテストを変えない。

『とある「社会問題A」に関して、ある人の表す態度が「沈黙」「無関心」であった場合、その人は問題Aに対して強者の立場にいる人である。』

 

という原理を、根が深いなと最近感じることがある。

というのも、先日、中学生が人種差別問題についてプレゼンテーションをしたのだが、その発表に対するコメンテーターが全員ジャマイカ系の黒人だったので、「果たしてこのジャマイカ人達はどうコメントするのか?」とちょっと気になったのだが、そのコメントは
「この種の問題に対しては『触れない、沈黙を保つ』というのが賢いとされる中で、あなたの勇気あるプレゼンテーションに敬意を表する」
というものだった。

なるほど。日本にいると問題がさほど先鋭化しないので気にしないが、多民族・多人種国家では「沈黙が最良の選択肢」という現実が往々にしてあるのだな、と実感したのである。

 

いっぽう、最近の日本で荒れがちな社会問題「ジェンダーフェミニズム論」についても、そういうところがある。

上野千鶴子さんが
「自分の配偶者に沈黙・無関心を貫かせない、配偶者だけでも問題の場へ引きずり出す『一人一殺』が重要」
と書いていて、最初読んだときは、ずいぶん物騒なこと書くなと思ったものだが、ジャマイカ人の先生のコメントを聞いてからはちょっと見方が変わった。
確かに怒ってもまあまあ許される権利のある自分の配偶者ぐらいには「僕は興味ないから」と言わせたくないものである。

沈黙の態度といえば、かつて東日本大震災があったときのことだ。
東京に住む人のそれなりの割合が「心を壊されたくないので目を閉じ、耳を塞ぐ」という態度を表明していた。
一瞬、弱者が自分を守る選択をしているように聞こえるが、そうではない。福島の隣県で、停電や断水にそれなりに苦しんだ身としては、その態度を選べるだけで充分に強者の弁に思えたものである。
しかもそこで「悠長なこと言ってんじゃねえ!」と怒っても、「この人怒ってる!怖い!」と耳を塞がれてしまうので、意味がない。理解の壁がすごいのだ。

これはまさに、日本におけるジェンダーフェミニズム論の泥沼的停滞の構図そのものである。こうなっては確かに「一人一殺」から始めなければ、進展に向けて何のとっかかりも無いかもしれない。

 

主題は体育である。

僕は長年「体育のテストが諸悪の根源」という主張をしており、運動が嫌い/苦手だった人には激しく同意してもらえるのだが、体育の先生に言うと「そんなこと考える人がいるのか」ぐらいの返事になることが多い。説明しても「はぁ」といった感じである。

これも同じ構図だ。

これ、もしスポーツ/体育教育の方針を決める人がみな運動の得意な人ばかりだったら、問題が問題として認識されず、この問題はいつまでも変わらないことになる。

これはまずい。

というわけで運動が苦手な人たちはもっと「一人一殺」の気概を持って、「体育のテストは結果が周囲に知られることの無いよう人権に配慮し、全ての学校にテスト専用の個室型体育館を設置して、結果の秘匿性を確保しながら実施するべきである」と主張しなければならないのではないかと思う