まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

古久保-徳永研究室のこと

先日、僕の恩師である古久保-徳永 克男先生の退官記念パーティーが開かれた。

 

実はコロナ流行直前に先生は退官されているので、4年越しの念願が叶っての開催となる。先生も元気に喜んでくださって、本当にいいパーティーとなった。

僕は卒研生として1年間だけの在籍だったのだけど、今の自分と切り離すことのできない大切な示唆を得た時期だったように思う。

その頃のことを書き残したい。

 

古久保研(Lab.KFT:Katsuo Furukubo-Tokunaga)とは

古久保-徳永 克男先生は、ショウジョウバエの神経発生学を専門とされている。

スイスにある大学でヴァルター・ゲーリングという世界的に有名な生物学者に師事したのち、僕の母校である筑波大学に研究室を開いた。

ゲーリング博士は、今や高校の教科書にも載っている「ホメオボックス」を発見した伝説的な生物学者である。大師匠が世界的な著名人というのは、頭ゆるゆるの生物学生だった僕に不思議な高揚感を与えてくれた。

 

そんなスイス帰りの古久保先生からそよそよと漂うソフィスティケーテッドされた風は、一味違う雰囲気を当時の学部内に吹き込んでいた。

生物学の持つちょっと泥臭いイメージとは全く無縁の、すっきりとしたラボの中にはMacintoshがたたずみ、先生はメールソフトのEudoraをドイツ語読みで「オイドラ」と呼んだ。

先生のオフィスには共焦点レーザー顕微鏡で撮影された画像がシンプルモダンに飾られており、そこで開かれる週に1回のセミナーのときにはラボメンバーの中央にハンドドリップのコーヒーに満ちたサーバーが涼しげに置かれた。

ちょっと記憶の改変もあるかもしれないが、とにかく上質な空間であったことは確実だ。

 

なんで私が古久保研に?

そんな洗練された研究室に、何で僕のようなトリあたま学生が迷い込んでしまったのか今でも不思議な気持ちになることがある。

大学3年生当時、僕は生物学との倦怠期で、すっかり文学や教育学の方が面白くなっており、どのラボを見ても研究に全く興味が持てない閉塞した時期だった。

系統分類学を学ぼうとは思ったのだが、狭い領域の未記載種や未詳の動物群を研究することに興味が持てず、さてさてー……と思いながらふと目を向けた古久保研の研究内容はたいへんにエキサイティングだった。

脊椎動物無脊椎動物の遺伝子の共通性に目を向けつつ、脳や神経、学習に対する遺伝子の影響まで視野に入れている。広い視点に立つその研究的な鮮やかさは、枯れかけた理学への興味にふたたび火を灯してくれるような科学的冒険性に満ちていた。

しかし僕は4年生になる前に教員になることを決意してしまったので、深い研究生活に入ることはなかったが、先輩たちの研究発表を毎回興味深く聞けたので、間違いなく最善の選択をできたと思っている。

 

日雇い的研究生活

院生時代も含めて、僕の学生生活の最大の反省点は、自分での研究テーマ設定がからっきしできなかったことである。

研究室に所属するも、基礎的な知識が全く不足している僕を見て「加藤君は勉強が足りない……」と嘆息しながらも、先生は研究テーマらしきものを与えてくれた。スクリーニングという、まあとにかく面白そうな挙動をする遺伝子が無いか、ひたすらにハエの卵を染色して観察し、探しまくるという、土方的な作業である。

ラボに入れば自然と手持ちの文献とか増えるのかしら?と思っていたのと裏腹に、1年間ひたすらハエの卵を染め続けた僕の本棚には何一つ文献は増えなかった。そのかわり、ショウジョウバエの飼育ビンを洗ったり、エサビンを作ったりするとアルバイトのこづかいがもらえたので、それは一生懸命やった。

退官パーティーで先生は「まあ加藤君は、真面目にやってたよね」と、当時のことを回顧してくださった。確かに半熟卵のようにぐでっとしていた3年生の頃と打って変わって、毎日せっせと研究室に通い、先輩に可愛がってもらいながら暮らせていたので、あれはテーマと仕事を与えてくれた先生のおかげだったと思っている。

 

魅力的なメンバー

僕は大学院からは教育学に専攻を変え、理学の道を離れたのだけれど、何のかんので話を聞いてくれる先輩がいる古久保研究室(Lab.KFT)に顔を出すことがきわめて多かった。

Mr.古久保研といって誰もが認めるのが(それは古久保先生ご本人なのではないかというツッコミはさておき)、いまは国立遺伝研の広報をされている来栖さんである。

www.nig.ac.jp

兄貴分肌の来栖さんから見ても、いじり回しやすい後輩が入ってきたのは面白かったらしく、あれこれとよく遊んでくれた。しょうもない僕にびしっと言ってくれることも多々あり、「お前は年上の人が自分を助けてくれて当然と思いすぎてるんだよ!」と言ってもらえたときは、自分の至らない側面をハッと自覚できたのを鮮明に覚えている。

その他後輩でも、さっと検索しやすいところだと、諸般の事情でテーマは生殖細胞ながらも同じ部屋にいた林さん(現・筑波大学助教)、いまは国土交通省で活躍する戸谷さん、また古久保研の後の時代においてキーパーソンになった本庄さんなんかがいて、学生らしく遊びながら楽しく過ごすことができていた。

朝日新聞デジタル:港湾系70事務所で初の女性所長 - 山口 - 地域

林 誠 (Makoto Hayashi) - ショウジョウバエ始原生殖細胞における遺伝子量補償の欠如による生殖系列の性決定機構 - 講演・口頭発表等 - researchmap

ショウジョウバエを使って私たちの痛みの謎に迫る ~痛覚神経機能に重要な遺伝子を多数発見~(2016.06) – COTRE(コトリ)|COmmunity of Tsukuba REsearchers

 

古久保先生は、ご自身の海外研究生活を振り返って「パーティーをしているか研究をしているかのような生活だった。そして素晴らしい成果はどんどん出た」と思い返されていた。

いい成果は、まずみんなが居たくなるような場から、という哲学を僕も身に沁みて学ばせてもらったように思う。

 

「うまくザイルは伸びるか」

古久保先生は登山が趣味で、山のことを時折話される。山岳装備で雪の中にいるときの写真を見せてもらったこともある。(そして滑落して死にかかったこともある、と言っていたような気がするが、ここは記憶があやふや)

先生は物静かでクール、村上春樹の小説の主人公が飛び出してきて目の前にいるような雰囲気の方だが、退官パーティーではいろいろと思いを語ってくださった。

学生だった頃、登山のチームを組む際に、各々の技量もさることながら、チームのメンバーが普段から飲みに行き、コミュニケーションを取れているかが大きなファクターとなるのだという。そういうところがうまくいかないと、いざというときに「うまくザイルが伸びない」のだと。

先生はチームワークやコミュニケーションのことをあまり口に出さないイメージだったので、OB/OGはちょっと意外だと思うと同時に、穏やかな眼差しでラボの学生を見てくださっていたことに胸が熱くなった。「うまくザイルが伸びない」。先生らしい、深みのある言い方が心に残った。

 

 

パーティーでは、多くのOB/OGの活躍を聞くことができて、大きな刺激になった。

最近ぼくはミドルエイジ・クライシスそのもので、人生も仕事も折り返し地点をむかえた自分を受け止めきれていなかったのだが、それぞれの場、新しい場で活躍するメンバーの話を聞いて、再び奮い立つ気持ちを手にすることができた。

人生が吹き溜まったときに、いつでも風通しの良い窓を開けてくれるLab.KFTに所属できたことは、僕の人生において欠かすことのできないピースだったと思っている。

寄席メモリーズ 2023年9・10月

9月

池袋演芸場9月中席

私学中高教員の9月は文化祭で忙しい。
こんにゃくみたいになるまで働いたあとの、やっとやっとの寄席。

この日は、「ここに行くしかない!」という顔付の寄席がどこにも無かったので、そうであるならば池袋に行く。池袋演芸場は全席SS席とも言える贅沢なつくりなので、そこにいるだけで気持ちが昂る。

実家に寄る用事があったので昼の部だけだったが、わさび師匠がよかった。
以前、上野・鈴本演芸場のわさび師匠トリの会に行ったとき、客席がガラッガラだったが、そのときも師匠は抜群に面白かった。早く人気が実力に追いついてほしい。

 

 

⚫︎⚫︎寄席@???

この豪華な顔付の演芸会、何だと思いますか?

 

正解は、僕の勤務先で行われた学校寄席です。

喬太郎/転失気  花緑/つる

「うそっ、学校寄席で喬太郎花緑!? そして紙切りは正楽師匠!」

と演芸ファンなら目を回すラインナップである。
僕も最初にこのプログラムを見せてもらったときは腰を抜かした。

そして当日、日々仕事で使っている自校のホールに喬太郎・正楽の両師匠が座っているのを見たときは感無量であった。

廊下ですれちがったときに正楽師匠には8月にパンダを切っていただいたお礼を申し上げ、喬太郎師匠には私物の「喬太郎ブロマイド絵葉書」にサインしてもらい、花緑師匠には伝統文化教育に使っている師のご高著にサインをしてもらったりと、記念になるものをたくさんいただけた。

こんな幸せな日はこの先滅多にないかもしれない。

 

林家つる子独演会「つる子の赤坂の夜は更けて」@赤坂会館

つる子/豆腐屋ジョニー・中村仲蔵

林家つる子、は女性初の抜擢で真打昇進が決まっている期待の若手。
11月の笑点若手大喜利のメンバーでもある。
落語会の新星を二つ目のうちに見ておけるなら見ておこうと、赤坂まで出向く。

昨年のNHKの新人賞は立川吉笑さんだったが、僕はつる子さんも同じぐらいに面白かった。そして間近の距離で見るつる子さんは信じられないぐらい客席を圧倒する力がある人だった。

木久扇の次の笑点メンバーについては小痴楽一番推しだったのだが、この日を境に同点でつる子も同じくらいいいなと思い始めた。

とんでもない人を二つ目のうちに見られて良かった。
真打披露興行にも万難を排して向かいたい。

 

10月

神田伯山独演会@取手市民会館


天下の人気講談師・神田伯山が茨城まで出向いてくれるというので向かう。

伯山先生はインフルエンザからの病み上がりとラジオで言っていたが、そもそもの地力が別次元だからそんなことは全く感じさせない。今日も1000人の客を圧倒しつづけて駆け抜けるかと思いきや、トリの『浜野矩随』中盤、主人公が絶望の淵に沈み込む静寂のシーンで……

 

♪ピラパラポロピラ……♪ピラパラポロピラ……

 

と客席から携帯が鳴る。

話を止め、「あんなに言っても鳴るか〜」と呆れる伯山先生。
(いつもマクラでケータイを鳴らしてしまう客の話をする)
それでも気を取り直して話を再開するが、それから5分後

 

♪ふぁわわっわわーん ♪ふぁわわっわわーん

 

と鳴り響く着信音。
ガラケー安心だフォンみたいな安っぽい音質の)

 

「あー……、できねえわ。客層が悪いとしか言えない」

と伯山先生、めちゃくちゃ不機嫌になる。


もちろんプロなので持ち直して笑いに変えながら最後まで続けてくれたが、退場時かなり数のお客さんが「誰だよ鳴らしやつ〜」不平を漏らしながら帰って行った。

一番悲しかったのは伯山先生だっただろうと思う。
その後のTwitterの感想も「携帯が二度も鳴った」の記述ばかりになってしまっていて伯山の芸の素晴らしさが全く拡散しない、さみしい会となってしまった。

その夜、浅草のトリで伯山先生が昼と同じ「浜野矩随」を演っていた。リベンジだろう。携帯の鳴らない客席での伯山先生を見にいきたかった。



浅草演芸ホール10月上席後半

と言いつつ、ちゃっかり自分もその浅草の前売券を押さえていたのである。
伯山主任の興行は顔付がいいので必ず楽しめる。

伯山については、もう随分重ねて書いている。
以前ラジオで伯山が「演芸初心者がいきなり寄席を見に行かないほうがいい。つまらない番組に当たってしまうと落語が嫌いになってしまうから」と言っていたが、僕は極めて幸運だった。
なぜなら初めて行った寄席で伯山先生を目の当たりにすることになり、演目『扇の的』で、心の底まで射抜かれてしまったからである。

この日は『矢矧橋』(やはぎばし)。

秀吉が天下を取るまでの明快で気持ちのいい話で、その芸に無事に引き込まれて1日が終わった。

 

浅草演芸ホール10月下席

一之輔師匠が主任。
出張の帰りにちょうど時間が合ったので、白鳥師匠から入る。
一朝師匠、雲助師匠、いつまでも噺を聴いていたい師匠ばかりの日だった。

別件だが紙切りの八楽さん、前座時代になぜか落語をやっていたのに遭遇したことがある。演目は『平林』だった。

その後に出てきた落語家さんが「お目苦しいものをお見せしてすいません」と謝っていた。あれは何だったんだろう。

 

三遊亭兼好独演会「まるっと兼好」@きゅりあん大井町

やっとやっとで兼好師匠の独演会に向かう機会を実現することができる。

大井町はなかなか降りる機会のなかった駅。
暗渠界で有名な立会川暗渠をめぐってみたり、ちょっと足を伸ばして落語『鈴ヶ森』に出てくる鈴ヶ森刑場跡を見学したりする。

しかもゲストは喬太郎師匠という僥倖。

今年に入ってから何度も客席からお目にかかっているが、一度として同じネタに当たったことが無い。この日も面白かった。

兼好師匠は『のめる』を聞けた。
寄席のネタ帳ではよく見るけれど、生で聞いたことがなかったネタの一つ。
師匠の至芸である手のしぐさが抜群で、兼好師匠で聞けて本当に良かったと思った。

 

第六百六十四回 落語研究会 @国立劇場 小劇場

落語ファンなら誰もが憧れるTBS「落語研究会」。
赤坂の国立劇場で毎月開催され、落語会で最も権威がある会とされている。

僕も落語を聴き始めた頃にチケットの取り方を調べたのだが、「平日開催・年間通し売り」というとんでもなくハードルの高い販売形式に心が折れていた。

のだが、国立劇場の建て替えに伴いここ最近は月ごとの販売に切り替わっていたのである。観覧できる機会を虎視眈々と狙いつづけ、国立劇場での最終回となるこの10月開催の会に滑り込みで入場することに成功した。

そして国立劇場・小劇場はこの日が最終営業日。
この付近の出身なので、それこそ幼少の頃から日々の風景のように眺めていた国立劇場がなくなってしまうのは本当に寂しいものがある。
その格調の高さに気圧され一度も入ったことは無かったが、最後の最後で足を踏み入れる機会を得ることができて本当に良かった。

トリは人間国宝・雲助師匠によるレアネタ『やんま久次』。
「本日は国立劇場のおさらいを務めさせていただきます」の粋な口上に痺れまくる。

次の国立劇場が完成する頃には、年間通し券を買えるくらいの余裕のある生き方を手に入れておきたい。

山手線一周チャレンジ・完結編


昨年、秋葉原→池袋→目黒で一時停止していた山手線一周チャレンジ。
のこり3分の1ぐらいを今後は逆向きに歩いて、完歩することにした。

秋葉原から線路沿いに神田川を渡る橋。子供の頃から歩き回っていた界隈だったけれどこんな橋があるのは知らなかった。

30神田

九段の育ちなのでだいたい隣町なのだが、全く乗り降りしたことの無い駅。

 

日本橋川を渡る、ながめのいい橋「竜閑さくら橋」。
ここからはダイナミックに蛇行する首都高速の様子をこれでもかというほど堪能することができる。

 



幸先のいい光景。
触れることの全くなかった田端や日暮里に比べ、この地区についてはそれなりに土地勘があるが、さっそく見たことのない風景だらけで、いい方向に期待を裏切られる。楽しい。

 

29東京

意表をついてみました。
こんな私鉄各停駅みたいな出口もあるんですね。

28有楽町

有楽町付近のガード下は、ガード下界隈の中でもとびきりの一等地、という感じがする。ガード下らしい仄暗さやうらぶれた雰囲気がまるでない。

2階建ての焼肉屋
ガード下界の貴族階級と言えるだろう。

 

少し歩いた先。最近再開発されたような趣がある。
これはブルジョア階級ぐらいだろうか。

27新橋

やっと平民階級が見えてきた。
オッサンが新人の女の子をドヤ顔で誘っては嫌がられるということで名高い新橋のガード下だ。

升本本店の看板があった。
ちょっと前にライターの辰井さんが上げていたやつだ。

僕の小学校の向かいにあった酒屋兼スーパーみたいな店もマスモトだったし、他にも周囲に何軒か升本があった。
ここがあの升本発祥の地なのかと思うと感慨深い。

 


ここらから急激に湾岸ぽい荒涼感が増してくる。
あまり親しみのない領域だ。

 

26浜松町


と思いきや、意外と親しみのある風景に戻る。

 


そうですね。

 

ガード下、最果ての地。
この付近、落語「芝浜」の縁起の地であるなど、見どころが多い。

 

25田町

田町。降りたことがない。

ここから品川まで、再開発が現在進行形で続いていて特に見どころもない。
歩く道も第一京浜沿い以外に無く、空気が悪い。
正直、もっと海岸沿いを歩いた方がいくぶんか見どころもあっただろうが、こっちを歩かなければならない大事が理由があるのだ。

24高輪

ここを見るためである。
開業とともにコロナ禍に襲われたため、未踏の駅となっていた。
そろそろ街として何かにはなってるのかと見にきたが、びっくりするほど工事現場しかなかった。

むしろ清々しい。

清々しい、と言いつつも空気は現場のホコリと排気ガスで最悪である。
山手線完歩を目指す人でも、田町〜品川間は猿岩石方式で電車に乗ったほうがむしろ健康にいいんじゃないかと思う。

23品川

品川。湾岸エリア終わり。

駅前からうまく進むと、線路がきれいに眺められる遊歩道に出られる。
が、立体交差を逆サイド渡って大回りする感じで、たどり着くまでの難易度が高い。

 

それでも、新幹線と山手線が同時に行き交っているのを眺められたりするので万難を排してでも行く価値がある。

 

今日のコースは、前半ガード下ばかりで山手線を眺める機会が少なかったが、ここ付近は落ち着いて眺められるスポットが多い。

目黒川を渡る山手線

22大崎

大崎。友達が住んでいるタワマンがある。
一度招待されて行ったが、指定階に招待されないと止まらないエレベーターにうまく乗れなかったり、やたらと静かで長い廊下に戸惑ったりと、都会の生活にうまく順応できない自分を感じた。
都内出身の看板をひそかにしまうべきなのかもしれない。

目黒川を引き返す山手線。

21五反田

特に用はない。
ここから見慣れた「新宿側の都会の街」という空気が強まっていく。

20目黒

ゴール。前回、途中リタイアした目黒までたどり着く。

感想と反省

・田町〜品川間はパスして良い

・もしくは高輪の「オバケトンネル」経由で品川側に出るのも楽しい

・もういちどやるなら1日に完歩はきついので、日暮里〜田端〜巣鴨を昼頃に、田町〜東京駅付近を夜に回るようにして、あとは適宜間引きながら電車に乗りつつ一周まわりたい

 

2023上半期 寄席メモリーズ

育児のトンネルを抜け、昨年から始めた寄席通い活動。
昨年はまだコロナ2類指定だったのもあり、TXで定期的に浅草に通うだけで精一杯だったが、今年はもっと狙いを持って活動の幅を広げることにしてみた。

 

1月

正月初席@東洋館

浅草の3階、普段は漫才やってる会場で行われてた会。
喬太郎トリを初めて見る。
天どん師匠の、何をやらかすか分からない危うい雰囲気を初めて味わい、衝撃を受ける。最初は本当に「すれすれの人が出てきたんじゃないか!?」と驚いた。

 

正月顔見世@浅草演芸ホール

落語協会の新年顔見せ。
「なるほど、こういうものなのか〜」と感心。

 

1月31日 喬太郎・三三 二人会@サンパール荒川

堀ノ内/三三  時そば喬太郎  午後の保健室/喬太郎  転宅/三三

初めてのホール落語。
小春日和だったので、三ノ輪〜南千住の界隈を散歩。史跡「小塚原の刑場」など。
ホール落語は普段行かない駅に行くきっかけになるので楽しい。
子供が生まれる前に、取材やライブやマラソン大会で方々に行っていた頃を思い出す。

 

3月

3月上席@浅草演芸ホール


2月から一之輔が笑点メンバーになったが、寄席で見たことが無いなと思って向かう。
小ゑん師匠の演目「ぐつぐつ」が、めちゃくちゃエッジ効いててすごかった。
寄席は、気楽に行ってみて、うっかりノーガードですごい芸を喰らった時の感動がたまらない。

トリは代演で雲助師匠。人間国宝おめでとうございます。
写真は「ドキュメント72時間」で見て、前から食べてみたかった三ノ輪の特大コロッケパン。

 

4月

4月上席@浅草演芸ホール

伯山主任の浅草。
昼から向かって整理券をもらい、夕方まで寺や神社まわったりしてぶらぶらと時間をつなぐ。
文治師匠の「平林」、遊雀師匠の「つる」。
どちらも前座話と思っていたが、演者の腕でこんなに面白くなるのか!と、改めて噺家の力を感じた会だった。
それ以外も前座からトリまで、誰一人として気の抜きどころの無い、完璧な寄席の1日だった。伯山は「中村仲蔵」。終演後からカーテンコール、さらに出口の出待ちまで、どこまでも鳴り止まない拍手が心に焼き付いて離れない。

 

5月

浪曲定席@浅草木馬亭

浅草でもこの日は木馬亭浪曲の定席。
昨年12月の伯山主任の末廣亭で見た玉川奈々福、玉川大福の浪曲が、これまたノーガードで見ていた僕の心に刺さってしまい、これはいつか行こうと虎視眈々と狙っていた。

受付で「ここは落語じゃ無いですよ、浪曲ですよ?」と念を押されたのが、なんともおかしかった。

 

5月中席@国立演芸場 江戸家猫八襲名披露

赤坂・国立演芸場へ。
秋で建て替えになってしまうため、今のうちに行かないと二度と見られなくなるので焦って向かう。
落語を聴き始めていろいろ知ると、今からでは間に合わない多くのものを逃してしまっていたことに愕然とすることが多い。僕は人間国宝柳家小三治師匠も、落語会の革命児・三遊亭円丈師匠も見ることが叶わなかった。
少しでも取り戻すべく、ヨセカツをすすめて行きたい。

 

6月

6月上席@池袋演芸場

唯一未攻略だった定席であり、落語会最深部とうわさされる「池袋演芸場」へ初挑戦。
客席と高座の、信じられないほどの近さに目を丸くする。
マイクは無く、全て肉声。
落語の「一人演劇」としての性質がいやというほど露呈する、驚くべき会場だった。
これは中毒になる。

また楽屋舞台袖とロビーがほとんど一体化しているので、他の寄席以上に演者と観客の垣根が無い。寄席に足を踏み入れたら、目の前で「ロケット団」さんの二人がソファでスマホをいじりながら出番を待っていた光景は衝撃だった。

春風亭一之輔独演会@取手市民会館

真田小僧天狗裁き/竹の水仙

僕の住む茨城にも、たま〜に落語の独演会がやってくることがある。
折良く平日が休みの日に一之輔師匠の独演会があったので、逃さずに参加してきた。
秋には伯山も来てくれる。ありがとう取手市

 

7月

7月上席@浅草演芸ホール

なんと家族3人での寄席観覧。

喬太郎が見たい」
小2子供紙切り笑点メンバーが見たい」
「小朝が見たい」

の思惑が全員一致するという奇跡的な顔付けの番組。

子供は、小2にしては物語の理解力がある方だが、落語はさすがにちょっと難しいようである。それでも一之輔の動きのある落語には大笑いしていた。

前から3列目に家族で座ったので、師匠方に「幼い子供がいるぞ」という圧をかけることになっていないか心配だったのだが、たい平師匠は演目「禁酒番屋」に小学生にウケるアレンジを入れてやってくれ、これにも爆笑していた。

加藤家における、たい平師匠に対する好感度が爆上がりになった1日。


こども、念願だった「注文紙切り」をゲット(楽一師匠)

 

江戸東京落語まつり@日経ホール

落語ファンが総立ちになる、超豪華ラインアップ。
ぴあとeplusを見てきて一番チケットが取れない落語家だった、立川志の輔師匠をようやく見られたので、それだけでも十分。
さらにNHK新人大賞・立川吉笑「ぷるぷる」、女性初の抜擢真打・つる子の「反対俥」など実力派二ツ目も見られ、これ以上は望めない充実のホール落語だった。

 

伯山プラス(神田伯山月例の独演会)

伯山/海賊退治・雨夜の裏田圃  神田伊織/吃の又兵衛

昨年末にチケットが当選するも、悪いタイミングで家族がコロナになり、泣く泣く諦めた「伯山プラス」が、7月にようやく当選。演劇好きな小学校の頃の友人と向かう。

友人は伯山の独演会を開催する側の仕事をしたことがあり、とんでもない殺到ぶりに苦労したらしいのだが、この回でその芸を見てすっかり納得したとのこと。

 

7月余一会@浅草演芸ホール

本当は家族旅行があった日だったのだが、家族の急病でキャンセルに。
手が空いてしまったので、余一会(31日がある月に開催される特別な寄席)に行く。
会派の関係で、浅草では原則見られない円楽一門会が登場する「三遊落語まつり」。
兼好師匠は初めて見て、現物の芸の素晴らしさに目ん玉ひんむくような衝撃を受けたのだが、それを至近距離でまた味わうことができてよかった。
そして天どん師匠はほんとうに危うい。

 

8月

8月上席@池袋演芸場

一度ですっかり中毒になってしまった池袋演芸場へ。
権太楼師匠のトリを初体験。
初めて見た菊志ん師匠、という方がすごくうまい。調べたらNHKの新人大賞の受賞歴。
まだまだ知らない落語家さんがたくさんいて、世界の広さ深さを思い知る。

 

8月中席@浅草演芸ホール「住吉踊り」

恒例で開催されているという「納涼住吉踊り」が目当て。
6月ぐらいから専門月刊誌「東京かわら版」を定期購読するようになり、こういう「落語会ではこれが季節行事」というものも理解が深まってきた。
志ん朝から落語に入った僕としては、「志ん朝が始めた行事」というこの踊りをどうしても見たかった。
偶然にも喬太郎が代演で大トリだったので、夜まで落語も楽しむ。

 

「よこはま落語会」 露の新治・兼好・喬太郎

関東ではめったに見られない、上方落語の「露の新治」師匠が来るというので、ずっと前から注目していた会。
いつも登山をしてきた友達たちと見に行く。
そろそろ僕も少しずつ他人に勧められる落語というものがわかってきて、喬太郎・兼好、ともに気に入ってもらえたようで嬉しかった。

そして露の新治師匠の大ネタ「大丸屋騒動」。AppleMusicで何度も聞いていた憧れの演目だったので、これは生で聞けたのはまたと得ることのできない貴重な感動体験だった。

 

1〜8月までに13回行ったが、まだまだ知らない世界が多い。講談の定席も聞けていないので、下半期も引き続き頑張っていきたい。

masayukilab.hatenablog.jp

 

あの頃の僕らが笑って軽蔑した神経痛

僕の父親は晩年、中程度のアルコール依存に陥り、家族はそれに悩まされてきたのだが、そもそものかけ違いは「神経痛」だったように記憶している。

定年後はバス旅行や山歩きに行きたいな、などと話していた父だったのだが、定年早々どっちかの足の神経痛を患ってしまい、外出が億劫になってアルコール依存傾向を強めてしまったのである。

僕はまだ20代で神経痛などなったことも無く、全然共感できなかったので、「あんなにやりたいって言ってたのに酒ばかりになっちゃうわけ?」と失望の気持ちばかりを父親に持ったものだった。

 

さて僕のことであるが、2022年の後半は神経痛&関節痛との闘いであったと言っても過言ではない。

2月から痛みだしていたのだが、秋以降は頚椎ヘルニアで右腕が痺れ、テニス肘で右肘が痛み、右腕が完全に使い物にならなくなった。(コピー用紙の束も持てないレベル)

しかも、どちらもサイクリング&ベンチプレスと、健康維持のために頑張っていた運動の結果として発症したものだったので、「もうおれは健康維持レベルの運動すらできないのか……」とかなりやさぐれた気持ちに陥ってしまった。

何の運動をしても右腕が痺れて痛くて集中できないし、医者からは「その運動で痛むってことは筋トレに向いてないからやめなさい」とたかだか16kgのベンチプレスにドクターストップをかけられる始末。
その結果、夜は毎日酒を飲むようになり、これまで気を使っていた食事も適当に高カロリーのものをばくばく食べるようになり、体重も体型もどんどん悪くなっていった。

そしてとうとう、正月明けの健康診断でとうとう「脂肪肝疑い」という見たことのないメッセージが出た。

数年前までマラソン大会を嬉々として走っていた僕に、この診断が出てくるとはさすがに思いもしなかった。ショックがでかい。
そして思い出したのが父親のことである。
僕の脳内に中谷美紀が流れる。

 

「あの頃の僕らが 笑って軽蔑した 恥ずかしい大人に あの時なったんだね」
(「砂の果実」中谷美紀

 

本当に父親のことを根性無しのように思って申し訳なかったと思う。

「神経痛」なんていうありふれた病名の症状が、こんなに人の心をへし折ってくるものなんだとは僕はつゆ程も知らなかった。

 

幸い、テニス肘は3ヶ月の安静で全快し、頚椎ヘルニアも痛むパターンが掴めてきた。
1月からは約1年ぶりでフィットボクシングを再開し、全アチーブメント攻略をめざして頑張っている。昼食も再び、セブンイレブンの袋野菜をメインに据えるようになった。

この1年間でまた一つ、人生で乗り越えるべき心の壁を乗り越えられたように思う。
もし次に神経痛になっても、5日連続で鳥の唐揚げ3人前食べながらビール2本空ける、とかしないようにしようと心に誓っている。

鼻から胃カメラをやってみた

(ふつうの真面目な話です)

25歳ぐらいの頃の話。

社会人を始めたら胃を壊し、朝飯の食べられない日が続いた。
医者に行ったらピロリ菌がめっちゃいっぱいいるということなので、除菌治療したついでに、胃カメラをやることになった。

世の中で医者の言う「とりあえず胃カメラ飲んでみましょう。最近のは楽だから」ほどのウソは無い。

僕以外に2人、うっかりその言葉を信じて胃カメラをやって世界の終わりのような苦しみを味わった人を知っている。(1人はDPZのさくらいさん)
20年経った今でも、生々しく思い出せる。
あれ以来「こんなこと二度とされないように、真っ当に健康に生きていこう」と健全な生活を指向するようになった。

 

あれから時が経ち、僕はいま年に一回、石の粉を溶かした下剤入りの液体を飲まされ、放射線を浴びながら台の上を縦横無尽に転がされるという、謎の処遇を受けている。
それ自体は胃カメラよりずっとましなのだが、下痢の後に便秘になり、さらに悪い時には痔にもなり、なのに得られる画像の精度は大して良くないという、モヤモヤの残る検査だ。

しかしこれを我慢しなければ、看護師2名に押さえつけられ叫びながら顔面全ての穴から液体を垂れ流すアレをしなくてはならない。それは無理だ。

昨年、ドック終了時の問診のお医者さんにこの悩みを相談したところ、過去に除菌も潰瘍もやっているなら、いっそ胃カメラにしましょう、鼻からなら相当に違いますよ、とアドバイスを受けたので経鼻の胃カメラをやってみることにした。

 

結論から言うと、楽ではないが、経口のときの20〜30%ぐらいには苦しいな、という感覚だ。

経口カメラが入ってくる時の「飲み込めるわけねーだろ!」という直感的抵抗と身体的拒絶はそれほどない。

鼻の奥を通るときに少し痛い。また、のどを通るときにも4〜5回「おえーっ」となるが、経口カメラのときの、精神を殺されたような感じにはならない。検査後も軽い放心状態ぐらいで済む。

1日ぐらいは鼻の奥が物理的に痛いが、おとなしくしていれば治る。

 

バリウムとどっちが嫌かとなると、少し悩むが、その瞬間だけで済むので、やや経鼻カメラのほうがマシに思える。なにより、得られる検査画像がカラーで鮮明なので、やった甲斐があった感じにもなる。

 

結論:来年からは予約頑張って経鼻カメラにしていきたい。

山田が死んで、もう4年になるのだな

この時期になると亡くなったあの人を思い出す、というのは誰しもあると思うが、僕にとって正月という季節は、4年前に亡くなった山田のことを思い出す季節だ。

 

山田祐資(やまだ・ゆうすけ)は大学の1つ下の後輩、2019年1月6日に難治性のがんが寛解せずに38歳でこの世を去った。常にシニカルでコミカルで酔狂を気取る彼は、彼らしいスタイルを保ったまま、自分の死生をしっかり見つめながらこの世を去っていった。

 


2017年4月18日 NHK EテレハートネットTV「がんと共に歩む力を」より

 

その飄々とした姿は全くもって「山田らしく」、不自然なところは無いかのように僕の目に映っていたのだが、あれから4年経ち、一つの言葉をきっかけとして彼の胸中にまた思いを巡らせている。

 

『“がん”になったと言うと、哀れみの目で見られる』

これは、別のがん患者の方がこの記事で語っていた言葉だ。

がんになっても... | 生き方 | NHK生活情報ブログ:NHK

山田が末期のがんだと知ったとき、僕が彼に対して哀れみの目というか、その種類の感情を全く持たなかったと言えば、うそになる。
いつでも「ハッハッハッ」と笑い飛ばしてる彼のことを思い出すと、「山田が……あの山田が……?」と何か悪いジョークを聞かされている気持ちが先立ったのだが、それでも知らせが嘘ではないとわかると、彼の背負った定めを想い、数%はそういう気持ちを持った。

 

しかし、2017年11月、大学の仲間で囲んで集まったときの山田は、驚くほど元々の彼から一切のキャラぶれが無い、哀れみという感情など微塵も感じさせる余地がないほどにいつもの山田だった。



加藤「え、山田、会社はやめてないんだ」
山田「は?あたりまえですよ。 1000分の1ぐらいの確率でここから俺のガンが治ったとしたら、そんときウチの家族はどうやって生活したらいいんスか」

こんな調子である。
体重もなんならハートネットTVに出たときから、少し太ってすらいる。

相も変わらずえらそうなのでそこを厳しくツッコむと「ちょっとー、こう見えても重病人なんだからちょっとは優しくしてくださいよ」と言って、ハハッと笑う。
みんなが「山田だ……」「ああ、山田だなあ……」という安心感とともに彼との再会を楽しみ、なんなら、そのまま1000分の1の確率が起きるんじゃないかなという雰囲気で会を閉じることができた。

 

がんになって以来、山田はみんなが驚くぐらい精力的にあれこれ活動をしていた。

最初に載せたNHKへの出演もその一つだ。

がんと共に歩む力を | NHK ハートネットTV

ここでも山田はいつもの山田で、「末期がんになってこんなに泰然としてる人、いる?」と視聴者の心に存在を深く刻んだのではないだろうか。

これ以外にも大学の先輩に誘われて論文の共著に参加したり、

がんに関する学会や団体でどんどんプレゼンしに行ったりと、おいおい病人だろ?と突っ込みたくなるほどアクティブに、誰にも真似できないレベルでがん患者としての活躍ぶりを見せていた。
しかもこんな活動の傍ら、海外に行ったりXJAPANのライブに行ったりしているのである。Facebookに残るその軌跡が惜しくも友人向け公開なのだが、いつか書籍化されてもいいくらいだ。

 

しかし1000分の1の確率は起こらず、標準治療を全て終えて緩和ケアに移った彼は、2018年の年末に「セデーションに入ります」とFacebookに書き残し、みずからの意識をこの世から消し去った。
※セデーション:意識の段階を落とす緩和治療

これまで饒舌にFacebookで自らの治療や活動について語ってきた彼を思うと、この投稿はあまりに短い。

彼の真意はわからない。たとえ聞けたとしても「え、真意なんてないですよ」とか言うタイプの奴である。それでも僕は、彼が心の根底で「長々書いたら哀れっぽくなるじゃないスか」と思っていたのではないかと思っている。

 

1月になり世を去った彼は、葬式に来ていた僕らに向けて自筆の弔辞を用意していた。

「普段より『態度がエラそう』と言われている僕ですが、皆様より先に旅立ちまして、ここにいる誰よりも少し先輩となったわけですから、今回は少しだけエラそうに言わせていただきます!」というキラーフレーズで葬儀に笑いを巻き起こした彼は、最後までひとつも僕らに哀れみを感じさせるスキを与えなかった。

いつかは誰にでも死は訪れる。それがちょっと早かった人を哀れに思うことなんて無いのだ。

それでも弔辞で「娘たちはまだ幼いので、ぼくのことを忘れないように、成長に応じて何度かぼくのことを話してやってください」と言い残したような、彼がたまに少〜しだけ見せる弱みが、皆を惹きつけるポイントでもあったのだと思う。

 

あれから4年、娘さんたちは少しでも大きくなったはずなので、あのときの山田の依頼を果たすためにこのブログを書いた。
僕の記憶に残る山田の言動が少しでも、お父さんに思いを致す手がかりになればいいと思う