まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

行列のできない高校物理教員

教員として日々子供たちの学習に携わりその気持ちに寄り添っていると、蓋然的に、自分が中高生だった頃の気持ちも多少思い出しながら指導に当たることになる。

そして今となってはどうでもいいのだが、時折ふッと「ああ、おれ本当に数学ができなかったよなあ……」と悲しい風が胸をよぎることがある。
高校でビリだったとか、センター直前模試で30点ちょいしか取れなかったとか、そういうのを挙げればいくらでもあるが、何より自分が脱落してるなあと感じさせられたのは「行列」が1ミリたりとも理解できなかったことである。

 

「行列」とは旧課程では数学Cで履修されていた分野である。
通常、理系の人しか勉強しないし、いまは高校ではやらない。
カッコの中に4つ数字が並んでいて、それをなんか特殊な方法で足し算したり掛け算したりする不気味な分野である。

 

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周りの人が次々とこれを解きこなしていくさなか、僕は一人だけこの分野に立ち入ることすらできなかった。なぜなら、この数字の並びや規則がこの世界の何を表現しようとしているのか、さっぱり掴むことができなかったからである。

微分積分は、まあ、なんか分かる。速度が増えたり減ったり面積求めたりできて具体的だ。無限の話もぶわっとなったり、ひゅっとなったりする感じがする。
確率・統計は間違いなくよく分かった。こういう実体性があるものは得意だった。
ベクトルは最初意味不明だったが、座標とは別のやりかたで平面や空間を考える発想なのだと聞いて、考え出した人の気持ちがわかった。
三角関数媒介変数も、現実への応用が時折顔を出すので理解できないことはなかった。

 

しかし「行列」だけは何度学んでも、考え出した人の気持ちがわからない、何を表そうとしているのかの意図すら掴めない、理解の絶壁みたいな分野だった。
大学入試とかに際しては、そもそも数学全般ができなかったので、一つぐらい絶望的な分野が増えても変わりはなく、本番でもやっぱり出題されて予定通り全く解けなかったが、それでもまあ合格できた。

だがどうやら、行列というのは理学を修める上でいろいろ重要らしく、大学入学後も折に触れ顔を出してくる。(Wikipediaにも「行列の応用は科学的な分野の大半に及ぶ」と書いてある)
そこで僕も諦めてはいかんだろうとチャレンジ精神を発揮して、詳しそうな人に僕の根源的な疑問である「行列ってそもそも現実世界の何を表しているの?」と片っ端から聞いて回ったりしたのである。

だが、大体においてほとんどの人が「あれは本当は列ベクトルなんだよねー」と謎の言語を返してくるのでもっと分からなくなるのだった。なんか大学で習う言葉らしい。

こうして結局理解できないまま僕は理科の先生になり、あろうことか若手の頃などは高校生に物理を教えるようなことも何年か続いて、内心「行列のできない物理教員、か……」と、何か違法なことをしているかのような心理状態ですらあった。

 

ただ、そんな中、行列について一人だけ僕の腑に落ちる回答をしてくれた人がいた。

小学校の友達の中でも随一に理科と算数ができたコジマという友人である。
理数に抜群の才能を持ちながらも全分野の学問全てに幅広く教養を持つ、知の総合格闘技チャンピオンみたいな奴なのだが、30歳過ぎた頃ぐらいに飲みに行ったときに件の質問を投げかけたところ、

「行列は何も表してはいない。ただの計算様式だ。高校数学の中でも計算様式だけを習う特殊な分野だから、加藤のような知識の求め方をする奴は戸惑って当然だ。」

「なお、その起こりは連立方程式なんかを解く計算様式として導かれ、この様式を応用するといろんなことが説明できることが分かったことから有用であると見做されている、ぐらいの理解でいいだろう」

と即座に回答してくれたのである。

数学的弱者を救済してくれる素晴らしい回答である。
もし誰かからこの回答を高校生の頃にもらえていたら、変なところで立ち止まらず開き直って行列を学ぶ覚悟ができていたかもしれない。

とはいえ、それからのちも特に学び直していないので、僕はいまだに行列ができない理科教員なのだが、それでも子供に理科を教えるときには、正論だがやる気の起こらない話をするのではなく、正論ではなくともとも学びの入り口に向かいたくなるような、そんな教え方をしていきたいものだなあと、行列の記憶を思い出すたびに想いを新たにしている。

おれたちの耐用設計年数

昨年1年間、毎日やりきったことといえば猫への点滴である。

飼い猫が11歳になり、腎臓を悪くして毎日点滴をしなければいけなくなったのだ。昨年2月から土日祝日も含めて一日も休むことなく、点滴を続けてきた。

調べると、猫の腎臓というものはだいたい7〜8歳以降でほぼ確実に悪くなりはじめるらしい。
飼い猫の寿命自体は10年以上あるが、それは野生にはない飼育環境のおかげであって、比較的厳しい環境下で生きる野良猫の寿命は5年ほどだという。
つまり猫の生体構造上、腎臓を5年以上の使用に耐える設計にする必然的な理由がないのだ。
そう考えると、猫の実質的な寿命は長くとも8年程度と言えるのかもしれない。

さて、同様のことはもちろん人間でもある。

認知症(痴呆)は、人体設計上における計算外事態だというのはよく聞く話だ。脳の耐用設計年数は65年程度であり、それ以上生きることを想定していない。だからしょうがないのだと。

そして老眼だってそうだ。
あの福山雅治さん(50歳)が「老眼で時計が見えない」と言っていたのを読んで衝撃だったが、誰でも時限装置が発動するように45歳には老眼が始まるのだというから驚きだ。あと3年半じゃないか。
20代の頃のような最高潮感はないにしても、今のところ総じて元気はつらつな僕だが、重要パーツのうちの一つの耐用設計年数が、あと3年半でやってきてしまう。

 

そんなことを、毎日毎日、猫の点滴を続けながら考えていた。

というわけで、最近の加藤に何かまた不思議な挙動が見られるな、と思ったら(「いつもだろ」という突っ込みは置いておいて)、耐用設計年数を前にして何かを考えたのだなと思ってください。

 

30代でお金をかけるようになったこと

僕は29歳のちょうど終わりの月に結婚したので、ちょうど30歳からライフスタイルがぐっと変わった。それから10年、意識的にお金をかけたなと思い出すことをちょっと記録したい。

1.コーヒー

ドリップバッグのコーヒーは冷めると急激にまずくなるのが納得いかなくて、豆から入れるようになった。そして開眼した。

自宅で飲むだけでは飽き足らず、職場でも入れるようになり、そうするとみんなどんどん飲んでくれるのでどんどん新しい豆も買いに行くようになり、毎年総額でかなりの金額になる豆を買っている気がする。

もちろん道具もナイスカットミルという2万円ぐらいのミルをはじめ、プレスやカップも買ってしまった。この冬はパーコレーターも買いたい。

コーヒーは来客の時だけでなく、実家に帰った時なんかにも入れると親や家族も喜んでくれるし、酒と違って子供がいる場でもみんな安心して飲める。現実的には酒よりもよりもずっとリーズナブルに深く楽しめる投資だなと思っている。

 

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冷凍庫にあふれるコーヒー豆

 

2.マラソン

20代の頃は主にスタイルのため(つまりモテ状態を意識して)日々ジョギングしていたが、結婚して関係なくなったので代わりに大会にエントリーするようになった。今となっては20代の頃は、ただ走りたいだけであんなに走れていたの、すごかったなと思う。

大会もお金がかかるが、ウェアもシューズも買い始めると意外とどんどんお金を使う。

大会はいろんなランナーを間近で見られて面白いし、自分が使ってないグッズを手にする機会にもなるのでとてもいい。「大会あるし、少しは走るか」と言う気持ちにしてくれるのでさぼらなくなる(と言いつついくつかは大会自体サボったが)
おかげで体重は29歳の頃から変わらずに推移できている。

いまは3年前の時の足首骨折以来参加できてないけれど、ちょっと良くなってきたので、ついつい我慢できず来年の守谷ハーフマラソンにエントリーしてしまった。
まだ家族には言っていないのでばれた時の言い訳を考えておきたい。

 

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東京マラソン(参加費1万円)スタート地点

 

3.スーツ

「異性の好意を得るためなら身なりをきちんとする必要はないが、他人に影響力を与えたいと思うならきちんとする必要がある」
みたいな格言を見かけてなるほどと思い、僕の商売は他人に影響を与えるのが目的なので、ちょっときちんとしてみることにした。

やっぱりオーダーしたスーツは長い時間着てても疲れなくていいな、ぐらいにほんわりと気に入っていたのだが、「地球イチバン」でコンゴのサプールの回を見てから急加速した。

美意識が高すぎる!コンゴの謎のオシャレ集団「サプール」とは?

くそかっこいい。

年収の半分以上をスーツにつぎ込んでまでダンディズムにこだわるという。

これを見てから「払っていもいいかな」と思う額の上限が急にゆるくなってしまい、毎年1着ずつ着実にオーダーしている。合わせてシャツもネクタイもついつい買ってしまう。

とりあえず僕は毎日楽しいが、「その結果、仕事で他人に影響を与えられるようになったのか」という最重要点については検証はなされておらず、投資の効果については不明のままである。

 

4.一眼レフ

学生の頃は金がなく、AFの無い古いフィルム一眼と50mmの単焦点レンズだけ親から借りて無理やり写真を撮っていたのだが、ライター業を始めるにあたってデジタル一眼を思い切って購入した。

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買った日の写真。30歳の時だ。若いな。

一眼はやっぱりコンデジとは全然違うから、撮れる写真のクオリティは別格で、20代の後半に撮った写真を全て一眼で撮りなおしたいと思うレベルだった。

さらにこのあと勤務校で映画同好会の顧問も始めたのもあって、バイクを30万円で売り払い、2台の本体と3本のレンズと防湿庫へと変えてしまった。

だが、これだけ投資したにもかかわらず、子供を撮る際には「いまその場で持っている」便利さに負けてほとんどスマホしか使っていない。国内のデジカメ市場も衰退するよね……。

 

 

『極夜行』にシビれまくっている

仕事で極夜(白夜の逆)のことを調べているうちに『極夜行』という本に突きあたった。冬の北極圏の極夜の中を数カ月にわたって単独行をした探検家のノンフィクションだという。 

極夜行

極夜行

 

 

これは良さそうだと思ってなんとなく買って読んでみたところ、これがものすごい面白さでびっくりしてしまった。

夏に電車の中で読んだのだが、すごい深さで暗黒の極夜へと意識がひきこまれるとんでもない迫力の書物であり、自分が真夏の日本にいるのを忘れさせられるほどだった。

「迫力?こういう偉業系の人が書く文章って『ドヤ文章』なんじゃないの?」と思うかもしれないが、そんなことはなく、自身の探検行為に対して、そして文章を書くという行為に対してクールな距離感を持ちながら記述されているのがほんとうに素晴らしい。

とんでもない人だ、なんなんだこの人はと思って作者の角幡唯介さんのことを探ると、かつてチベットの未踏地を探検したエッセイでノンフィクションの大賞を受賞したことがある人だとのこと。

 

 

あっ、これはあれだ、むかし本好きの幼なじみから推されたことのある本だ。

そのときは「そのうち読むわ」と記憶にとどめつつ買うのはスルーしてしまったが、こうなってくるとがぜん興味が湧く。

彼のうちにはハードカバーの本ばかりがずらりと並んでおり、「文庫本なんか、本とは言えない。」と読書家版・山岡士郎みたいなことを言うやつだったので、彼に勧められたからにはハードカバーでを買おうかとも思ったが、やはりケチって文庫版にした。

しかし本の中身はそんなことをあっという間に忘れるぐらいに面白く、3日連続google earthチベットの山岳地帯を睨みつけながら食い入るように読んでしまい、翌日の仕事に支障が出そうになるレベルだった。

感動のあまり彼にメールをすると、そうだろう、角幡唯介の本は全部面白いぞ、極夜行の事前譚である『極夜行前』も面白いから読めよ、とさらに推される。

 

極夜行前

極夜行前

 

 

なるほど、でもまあ『極夜行』には及ばないのかなーと思いながら読んでみたが、これもめちゃくちゃ面白い。いや、ある意味では極夜行のような張り詰め切った空気がないので、肩の力を下ろしながら読めていい。

特に犬のくだりが秀逸で、「犬と人ってこんなにも生死の境で濃密に関係を築き上げられるんだな」と感嘆せずにはいられない、すさまじく濃厚な描写が繰り広げられる。

 

3冊を通して角幡唯介さんは「脱システム」ということを強く語り続ける。
その中でも特に印象深いのは、「探検とスポーツは対極に位置している」というフレーズだった。

僕はどうもスポーツ観戦(特に球技)にほとんど興味が持てないのだが、それがなぜだかが何となくわかった気がした。
興味がスポーツ側ではなく探検側、つまり「脱システム側」に寄っている人間なんだと思う。それだからこそ、角幡さんの文章に人一倍、心が共振してしまうのかもしれない。

 

というわけで夏の読書で久々にシビれたこの3冊、秋の読書で皆さんにもおすすめしたい。なお文庫本なんかは本とは言えないので、ハードカバーで買うように!

ヌルデが生えてきたぞ

先日、林さんと大北さんの記事で雑草担当として記事に出演してきた僕だが、記事のとおり基本的に植物好きなので、昨年買った自宅の庭も、植物が主役になるようにあれこれ工夫をこらしている。

 

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荒地の分譲地を耕して1年目にしてはまあまあ良くできた。

草むらにはカエルも住んでるし、最近では虫の鳴き声も聞こえる。 

 

一番のポイントは芝生にしなかったことだ。雑草も含めて植物相自体を愛している僕としては、わかりきった単一種の植物だけが庭を覆っているというのはちょっとつまらないように思えたので、そこらの腐葉土や草の種なんかを庭の土に施しながら、未知の植物が季節ごとに生えてくるのを楽しむことにした。

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勝手に生えてきた植物1

これはコキア。最初はまさか園芸種が突然生えてくると思わず困惑したが、こいつは園芸種ながら雑草並みに強健な性質を持つらしく、どこかからか飛んできた種が発芽したらしい。子供が面白がってぶちぶちと葉をちぎるのに屈することなく、モリモリと成長している。

これ以外にも子供のおもちゃとして拾ってきたトチの実やドングリも次々に発芽しており、そろそろ小トトロでも寄り道していくのではないかという自然環境になりつつある。

そんなうちの庭に正体のわからない葉の植物が生えてきた。

 

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この木なんの木

 

夏になるのに成長が遅く、一年草ではなさそうな雰囲気がある。
しかしケヤキの幼木にしては葉が大きい。
葉の生え方は「羽状葉」だ。ということは強健雑木として悪名高いニワウルシだろうか。

 

などと考えながら成長を見守っていたのだが、つい最近正体が判明した。

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あ、この中央の葉軸に「翼」のある独特の羽状葉は、ヌルデだ。

 

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『葉っぱで見わけ五感で楽しむ 樹木図鑑』 より

 

ひゃっほう、ヌルデが生えてきた、ヌルデだヌルデだ。
ヌルデにできる虫こぶは「ふし(五倍子)」と呼ばれ、かつてはタンニン源として重宝された有用植物だ。以前やったお歯黒の記事にも出てくる。

dailyportalz.jp

というわけで知っている人から見れば「ヌルデが生えて喜んでるよ、この人……」のような状態なのだろうが、僕としては自然に生えてきた初めての木本がとてもいとおしく、早くこの木には育ってもらって、虫こぶを収穫してお歯黒や皮なめしをしたい気持ちでいっぱいである。

 

子どもの言語2

「こもど」

子供が小さく単語の音を入れ違えて言ってしまうというのはよくあるという話で、うちの子供も堂々と「このイス、こもど用?」などと言っている。
(もちろん正しくは「こども用」)

他にもいくつかそういう単語はあったのだが、「こもど」だけはいまだごく当然のように使い続けている。もちろん大人は正しく「こども」と言っているのだが、全然直る気配はない。

これは思うに、僕らが「こども」と発音していることに、そもそも気付いていないのではないかと思う。

というのも、僕も「雰囲気」の発音について、同じ体験をしたことがあるからだ。

この単語を「ふんいき」ではなく「ふいんき」と発音する人が多いのは最近では周知の事実だが、僕は初めて聞いた時「『ふいんき』なんて言う奴いるのか?聞いたこと無いぞ?」と思ったのである。

しかし、それを知ってから、あらためて周りの人の言っている言葉をていねいに聞くと、確かに何人かは「ふいんき」と言っており、たいへんびっくりしたのだ。つまり、あまりにも当然に「ふんいき」と言っているものだと思い込んでいたために、「ふいんき」と言われてもそれが勝手に脳内変換されて聞こえていたのである。

というわけで、うちの子供にいくら「こども」と言っても、「こもど」に変換されて聞こえてしまっているのだろう。それではいくら言っても直らない。

でも「こもど」もいつかはこの子の脳内で書き換えられるのだろう。それがいつになるのかは分からないが、それを楽しみにして毎日こもどと会話をしている。

 

「少しぐらい」

「少しだけ」とほぼ同義で使っている。
おそらく母親に「少しぐらいならバナナ食べてもいいよ」などと言われているからだろう。僕に向かって「おとうさんも少しぐらいたべてもいいよ」と果物を差し出してきたり、自分が食べたい量を説明するときに「少しぐらい食べる」と返してきたりする。


ネイティブ話者としてはこの用法に違和感があるが、文脈的に意外と破綻なく通じるので、もしこの違いを日本語を学習する外国人とかに説明しろと言われたら、意外と難しいような気がしている。

 

「きないで」

来ないで、のこと。

人間にはことばを法則立てて理解する能力が生得的に存在しているため、基本文法は体得していてもカ行変格活用が理解できていない段階の幼児は「来ないで」を「きないで」と言うことがある

というようなことを、むかし何かの本で読んだのだが、ある時不意に我が子が「おとうさん、きないで!」と発したため、本当だ!と大変におどろいた。
人間のこういった内在能力を一つずつ目の当たりにすることができる「子育て」というプロセスは、本当に人生において意味深いものであるなと思う。

 

「あそび」

遊び場、遊具、遊び方などを全て指した名詞として「あそび」と言う。

「あたしのあそびはどこ?」、「あそびを買いにいかない?」とか「こうえんのあそびまで走っていこう!」などと言うのだが、この不思議な用法はもしかしたら「あそびにいこう」という文章の解釈から生まれたものである可能性があるなとある時ふっと思付いた。

「おみせにいこう」「こうえんにいこう」「あそびにいこう」、一番最後だけは名詞ではなく、動詞の「遊ぶ」が変化した「あそび」だが、幼児にとっては特に区別が感じられず、また「遊び」という名詞もそれはそれで存在するため、遊具・遊具コーナーを総称する名詞として「あそび」を彼女なりに創作したのではないか。

最近はすこしずつ「あそび場」と言うようになってきているのだが、それでも彼女の人生の一時期に存在し、そしていずれ消えてゆく「あそび」という単語の用法のことを思うと、いとおしくも不思議な気持ちになる。

 

子どもの言語1

子ども(3歳)とシャボン玉をやると、たまに「おしりつき。」と嬉しそうにつぶやくことがある。

「おしりつき」が何なのかは分からない。聞いてみても「丸いのが、くっついてるの」と言うだけで要を得ない。

複数のシャボン玉がくっついて化学の分子モデルみたいになってるやつのようにも思えるし、濡れた地面にくっついてドーム状になっているやつのようにも思える。

よく分からないが、3歳児がうれしそうに「おとうさん、みて、おしりつきだよ」と言ってくるので適当に調子を合わせている。

「おしりつき」が何なのか、その正体がもしこの先も分からないままなのだとしたら、その概念は彼女の中にだけ生まれ、そしてこの先、誰にも理解されないまま永久に消えていくのだと思うと、言葉って不思議なものだなと思う。