「才能がある」というのは「たくさんつくれる」ということ。
— くいしん (@Quishin) 2018年5月28日
たくさんつくれないやつはまあまあだ。
細野晴臣も横尾忠則も桑田佳祐も桜井和寿も川谷絵音も村上春樹もジョン・レノンもたくさんつくっている。
たくさんつくる、は絶対的な正義。
この言葉は心にしみる。
学生の頃、僕も一時、文章創作の道を考えたことがある。しかしそれが到底かなわぬ理想であることを思い知った出来事があった。ある一人の後輩が入学してきたことだった。
僕はそのころ大学の文芸サークルに所属していて、気が乗った時につらつらと書いた詩を文芸サークルの発表会に出している生半可な青年だった。
当時、詩作の世界で職業作家を目指すことはもはや到底かなわない時代だったのだが、それでも純粋に言葉の力を原始的に紡いでいくことのできる現代詩は魅力的で、それなりには頑張って取り組んでいた。
しかし、そのきっかけとなった彼は明らかに違った。作品を生み出すスピードと量が完全に別次元で、ミーティングのたびに、次から次へと新しい挑戦に満ちた新作を持ってくるのである。「湧き出し方」が比にならないのだ。
「気が乗らないと書けないー」なんて言ってばかりの自分。かたや次から次へと新奇な小説を生み出し続ける彼。その圧倒的な彼我の差に衝撃を受け、自分などとうてい創作の世界の門戸をたたく資格のない人間なんだなと自らを知り、すくなくとも職業作家になることはあきらめた。
※ちなみに、それが先日デイリーポータルに出てきた橋本である。
あのころから20年、才能というものについて考える機会が幾度かあったけれど、とにかく湧き出す力、いや、湧き出させ続ける力、ほど重要なものは無いのではないかという結論に達することはよくあった。
才能があるから作り続けられるのか、作り続ける努力のことを才能と呼ぶのか、そんなことはよくわからないが、もし何かの創作を始めようと思うひとがいるのなら、その人にはありとあらゆる「作らなくていい理由」を突破して、作り続けてほしい。そうでなければ才能があるかどうかもわからない。