まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

「秀英教育センター」の思い出

ぼくが学習塾に通い始めたのは中学2年生の2学期ごろだったと思う。

成績がどうしようもなく落ち込むも、意志薄弱だったぼくには自力でどうにもしよう無く、塾に通うことにしたのだ。

習い事も一切したことが無く、学校以外の場に慣れの無かった自分にとって、「独力で勉強できる気がしないから、塾に行かなきゃいけない気がしている」と、親に言うのが何とも気恥ずかしくも気まずく、

「……塾に……、行く……、行かなきゃ、っていうか……行ってみて……」

と言語不明瞭気味の日本語で伝えたのが、何とも甘苦い記憶として残っている。

 

SAPIX」と「館山塾」

当時(1992年ごろ)、九段近辺の中学生が通っていたのは「SAPIX」と「館山塾」に二分されていた。「SAPIX」はもはや今では解説不要だが、当時はTAPから分裂してすぐの頃で、未だ新進気鋭の進学塾だった。「館山塾」は水道橋にある独立経営のスパルタ指導で有名な学習塾だった。
※館山塾は驚くことにいまでも現存している。
(サイト: http://www.tateyamajuku2.com/ )

SAPIXは遠いからイヤ(あと頭いいやついっぱい通っていて、なんか怖そう)。 でも館山塾は、通っている友達に「個人指導とかみんな大変だねー」みたいなことをさんざん言ってきたので、今さら入塾するのはさすがに気恥ずかしい。

というわけで、家から一番近いのに、意外と友達が通っていない「秀英教育センター」という中堅どころの塾に通うことにした。

 

通い始めた「秀英教育センター」

家からどれぐらい近いかというと、歩いて2分、走って30秒、授業の合間の15分休みに家に帰って夕飯を食べても余裕で帰ってこられるという至近距離だった。夕飯のデザートであるスイカを塾に持ち帰り、講師室で先生や友達と分けて食べる、などというアクロバティックなことをしたこともある。

友達はと言えば、同じ中学から2人通っていたので、そのツテを通じて友達はすぐにできた。習い事を一切したことが無かったぼくにとって、違う学校の友達ができるということは何とも言えず新鮮な体験だった。嫌いな体育も、似合わない制服も、入っていない部活も、何もかも抜きにしてできた友達には、また別の次元の自分を見せられているような気がした。

ただ困ったのは、勉強がさっぱりわからないことだった。

途中入塾した生徒用にカリキュラムができていないので、英語は不定詞もやっていないのに現在完了進行形から、数学は合同の証明もおぼつかないのに空間図形の性質から授業が始まった。

「∽」の記号とか意味が全く分からず、全てにおいて学習のレベルが段違いだったので、成績が落ちたから入塾したのに授業が何一つわからないので寝るという、一体何のために入塾したのか分からない状況がしばらく続いた。

 

睡眠から「知の泉」へ

塾内模試では500人中400位ぐらいという極めてさえない成績だったが、それでも飽きずに休まず通い続け、冬になる頃にはようやく英語が理解できるようになってきた。「ああ、主語+動詞の順で文を作ればいいのね!」と。

理解できるようになってくると、テキストの長文が意外と面白いことに気が付き始める。アメリカンジョークやシニカルな説話、教科書や公立入試では取り扱われない魅力ある話を読むのが楽しくて、だんだん真剣に取り組むようになっていった。

続いて国語も楽しくなってくる。いちど読解の技法を身に着けてしまえば、国語は得意科目だったのでみるみる問題が解けるようになった。テキストに出てくる論説文や説明文の大人びた空気も素敵で、梶井基次郎の作品や太宰治の「女学生」を初めて読んだのも塾のテキストだった。

楽しくなってくると成績も伸びるもので、中3の中ごろには模試の順位も上がり、友達も増え、塾に通うのがむしろ楽しみになってきた。特に国語では模試で学年1位を取ることができた。

自分の実力とかを意識する能力が低かったので、特に達成感とかは無かったが、それでもあんなにもにゃもにゃと「塾に通う……」と言いだしたのに、通うことを許してくれた親に見せて恥ずかしくない成績だったことは嬉しかった。

そしてあの男「川井幸男」

塾で一番の恩師は川井先生である。

秀英教育センターに通っていて、この人の名を知らぬ人はいないであろうという超人気講師だった。

ただ、ごく似た雰囲気の同姓同名のひとが懲戒解雇処分を受けたのは今でも記憶に残る事件だ。

 

 

 これに関してはいまだに解決しておらずで、もうどうにもしようが無くなっている。

 

今は亡き「秀英」

なんだか取り留めのない思い出話だったが、いま、この塾(秀英教育センター)はもう存在していない。僕が大学生の頃に経営をやめてしまったはずだ。

もう忘れかけていることもあってなんだかふわふわした記憶なので、ちょっととどめたくて書き留めてしまった。家からすぐ近くのあの小さなビルで、友達関係でも知的体験でも、なかなかにいい成長体験をさせてくれた1年半だった。

あの頃お世話になった内宮先生、保坂先生、宮尾先生、丹羽先生、皆さんお元気ですか……、と追憶にひたりながらここまで書いて、英語の内宮先生のことを検索してみたら、すげー元気そうに活躍されているのが動画付きで紹介されていたので、むしろ軽く拍子抜けした。

www.youtube.com

内宮先生だ!
あの頃と声が全然かわってない! 1年半毎週習った内宮先生の授業!

先生覚えていますか。最初は全然授業わかんなくてガンガン寝てたけど、先生にみっちり習ったおかげで、ぼくは今頑張ることができています。今度台湾に出張してきます。本当に感謝してます。