まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

オタクを攻撃したのは僕だったんじゃないか

カルチャー論が好きで、ちょこちょこ目を通しては真剣に考える。

このあいだ読んだ鴻上さん×中川いさみさんの対談における「不条理の終焉」などには、ことさらに「なるほど……」と思わされた。

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子供の頃からスピリッツを読んでいて、中川いさみさんの熱心なファンだったので、いま中川さんが考えていることというのに非常に関心がある。榎本俊二さんも育児マンガを描く時代、あんなに流行った「不条理」はもう戻って来ないのだろうか。

(鴻上さんの登場回は、この前の回もほんとうによかったのでおすすめ)

 

さて、それと最近気になったのが「オタク対サブカル」という構図はあったかという話だ。

ta-nishi.hatenablog.com

 

これはもう、ものすごくあったように思う。

特に僕ら、またそれより少し上(1973~78年生まれぐらい?)には肌感覚として残ってるんじゃないだろうか。そして、僕なんかまさに「対オタク意識」をぎんぎんに持っていた中高生時代を過ごしたような思い出がある。

1980年代末は宮崎勉事件のせいでオタクに対する市民権は全く無く、もし今みたいに「痛車」なんて走らせようものなら、公序良俗に反したかどで逮捕されるんじゃないか、そんな空気が世間に漂っていた。

当時の僕は美少女アニメにもライトファンタジーにも全く興味が無く、VOWを読みながらスーパーファミコンのやり込み(とくに「シムシティ」と「女神転生」)に心血を注いでいた奇特な中学生だったが、そんな違いはお構いなしに、学校ではまとめて「オタク」の箱に放り込まれていた。

このとき僕らなんかが思っていた、

「俺が読んでるのは『エルリックサーガ』であって『スレイヤーズ』ではないし、プレイしてるのは『デビルサマナー』であって『ときめきメモリアル』ではない、あいつらとは全然違う」

のような気持ちが、その対立構造の原点だったんではないかと思う。

その後もしばらく、オタク層を下に置く構図が続いていた気がするが、あれを作り出したのは、あのころ(90年代中期)の僕のような若者一人一人の意識だったのではないかと思うと、なんだか胸が痛む。