まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

真田丸と新聞

真田丸』を毎週熱心に見ている。

大河ドラマ、ってのを通して全部見たことが一度も見たことが無かったのだが、『真田丸』はこれまでと明らかに異質な感じがして、毎週テレビにかじりつきだ。このこれまでにない面白さの質は何だろうな、とぼんやり考えていたのだが、「新聞」と「創作物」の違いに似ているなと昨日なんとなく思った

新聞のテンションって常に変わらない

たまにレポートや調べもので新聞の古い縮刷版を読むことがあるけど、驚くのはそのテンションというか、スタンスが、まったく時代を経ても変化しないことだ。

昭和40年とかの出版物なのに、今も同じ記者が書いていると言われても疑問を感じないのではないかというレベルで視点の置き方や報道のスタンスが変わらない。何十年も「まったく同じ窓」から世間を眺めているような、そんな印象が新聞という媒体にはある。

大河もなんだか毎回そんな感じ

僕の目には、歴代の大河ドラマも全部同じように映ってきた。

なんというか、毎回題材は変わるけれど見ている「窓」がいつも変わらない。さすがに歴史書ではないから主観は入るにしても、歴史の中の人物の苦悩や苦闘をいつも同じ視点から描いているような、そんな印象があった。

なので年が変わるたびに大河ドラマを1~2回見ることがあっても、「ああ、いつもの大河やってるね」ぐらいの印象しか持てない。琉球とか清盛とかちょっと変わった題材を扱ってみても、けっきょくその雰囲気は一緒なので、同じ新聞記者が違う事件について記事を書いているのを見ているような、そんな風にしか思えなかった。

真田丸』の”実験”

しかし『真田丸』は第1回目から、なんか全然違った。

あの独特の「大河ドラマの第1回ですぞ」みたいな空気はなく、主題にずばっと切こんでいくその吸引力の強さからもう鮮烈だった。戦国時代を舞台にしてあとは自由闊達にやらせてもらうぜ、という意欲が明らかに満ち溢れていた。

そして第2回目から次々と繰り出される実験的な試み。

歴史の文脈を踏まえたうえで繰り出す「もし現代の家族観をこの時代に当てはめたらどうなるだろう」「大阪城内がベンチャー企業の職場のようであったらどうだろう」のような仕掛けは、従来の大河ドラマに対する挑戦のようにも思えた。

この三谷幸喜が「自分の窓」から戯曲を書くかのように好き勝手にやっている感じが本当に新しい。「新聞」的であった大河ドラマの破壊。これが真田丸に肩入れしてしまう最大の理由だと思う。

それでいて残る歴史の「つめたさ」

そして『真田丸』のさらに好きなところは、歴史の魅力の本質であるとも言える「つめたさ」がきりりと際立たせられているところである。

大河ドラマが「大河」と名付けられている所以は、歴史というの大きな流れの中に飲み込まれつつも抗った人間の姿を描き出そうとしていることである、と僕は思っていて、朝ドラと区別のつかないような感じだった前作とかにはむむと思っていたのだが、真田丸はコミカルにまとめつつもそういうところはしっかり手を抜かずに仕上げているように思う。(他の大河通して見たことないのにごめんなさい)

勝頼も「黙れ小童」の人も、あんなに一人の死に歴史の業の深さを感じさせる描き方はもう、さすが三谷幸喜さんだとしか言いようがない。

 

というわけで「真田丸」、6月で放映の半分が終わってしまったのかと思うとすでに寂しくなってしまうほどの熱の入り方なのだが、のこり半年、1秒たりとも見逃さない熱意をもって追いかけていきたいと思っている。