この本が面白い。
1年に一度くらいは脳を叩き割られて、物の見方の曇りをすべてリセットさせてくれるような本に出会うが、まさにそれだった。
世の中には、言葉の「正しさ」について書かれた記事があふれるほど出回っている。
「確信犯」の原意は違うとか、「了解です」を目上に使うなとか、用法や原意について色んな人がこだわってこまごま書いている。
みんな(僕も含めて)、「本当は間違っている●●」とか「正しい●●」っていうのに弱いから、つい気になってそういう記事を見てしまうんだけれど、読んで楽しいかと言えば、微妙だ。「日本語の乱れ」なんてキーワードが出てきたらもう大変で、愉快・不愉快まで含めてごちゃ混ぜのわけのわからんことになってゆく。
いちおう僕も末端ながらライターとして「ことば」を商売道具にしているので、この議論に対して何も思わないということは無いのだが、とはいえその議論に混ざっていく気もないし、これに対してどう気持ちを持っていったらいいのかなあと思っているところに飯間さんと出会った。
「ほぼほぼ正解」と「ほぼ」を重ねていうのが嫌、という人がいます。今日NHKに行った時も、「すぐすぐは無理」という言い方を耳にしたように思います。では「現在、今どき」のことを「今今」と重ねる言い方、どう思いますか。もっともこれ、新語でなく、平安時代のことばなんですがね。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2015, 10月 23
最近議論を呼ぶ「ほぼほぼ」についての飯間さんの見解。素敵だ。
この本の全編を通じて、飯間さんは決して日本語が「正しい」「間違っている」と言わない。たとえどんな間違いとしか思えない珍奇な表現が出てきても「耳慣れない言葉です」「私が言うなら~~ですが」と自分との感覚の差しか表明しない。
この、「そもそも言葉に間違いも正しいも無く、使われている頻度と感覚の差のみであり、それを徹底的に面白がる」というスタンス。そうか、これがあったか! と目からうろこが落ちる思いだった。
そしてこれを辞書編纂者に言われるという、この上ない説得力。用法の正しい間違いを決める根拠になる「辞書」を作る側の人間が根拠としているのが、世間からの「徹底的な用例採集」であるというトートロジー的な奇妙さと気持ちよさ。
この立ち位置のクールさから見たら、正しい日本語にいちいち気を取られることなど、野暮天そのものだ。もっとなんで言葉を面白がろうとしないんだ、と。
もちろん飯間さんは絶大な知識量に裏打ちされての「面白がり」なのだけど、それでも、正しい・間違いに右往左往する人たちを尻目に、孤高の面白さを追求し続ける飯間さんのような視点を、僕も持っていきたいものだと思う。