まさゆき研究所

ライター・加藤まさゆきのブログです。デイリーポータルZなどに記事を書いています

東京で暮らすこと、が遠くなっていく

このあいだ、地方と首都圏で転勤を繰り返す職種の友達から「やっぱり働いている人間の対応の優秀さは、都市化の度合いに比例する」との感想を聞いた。これは僕もそれなりに同意するところがある。私立学校で働いているが、やはり私学の本場は東京と大阪・兵庫だ。都内の私学の先生たちの意識の高さには敵わないなという思いがあるし、それ以外にも随所で感じるときがある。

それでも僕が不思議に思うのは、あれだけ優秀な人たちが、なぜ、あの住環境の悪さには目をつぶれているのだろうか、という点だ。僕はそこがクリアできなくて都内に帰れず郊外に居残ってしまった。ちょっと思いを振り返りたい。

 

都内の戸建は狭い

昨年、僕はつくば市に家を建てたが、建坪は20坪弱ぐらいで駐車場2台つき、茨城の家としてはだいぶ小さいほうである。

しかしこれを都内の知り合いに話すともちろん驚かれる。都内ではみんな茨城に比べると驚くほど小さい家に住んでいる。僕の実家も建坪7.5坪のところに家族5人で住んでいたし、世田谷に住んでいる親戚の家もええっというぐらい狭い。とある友人は建坪6坪と言っていた。住宅面積日本一の茨城に慣れると衝撃的なレベルだ。

しかし僕は東京自体はすごく好きで、独特のアクの強さを何とも言えず愛している。できれば家を買う土地も、つくば市よりももっとアクの強い土地にしたかったのだが、諸般の状況をかんがみて、開発したての分譲地になってしまった。周りの家は全て小奇麗な新築で電線も無い。住宅メーカーの広告から抜け出してきたかのような純潔さだ。でもそれが僕には何となくさみしい。

「そんなさみしいなら、都内で働いて都内に住めばよかったじゃないか」という話だが、もちろんそう簡単にはいかない。

 

金持ちではありません

18歳まで僕が都内に住んでいた環境は、いま思えばぜいたくな環境だった。都心部で庭付き駐車場付きの戸建だったのだ。すかさずここで言い訳をしたいのだが、僕の家庭はまったくもって金持ちではない。父はなんでもない普通の平社員だったし、母は昭和らしい普通の主婦だった。それでも普通に住めたのだ。

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だってこんな家ですよ

ではどうやって住んでいたかというと、土地は戦後すぐに祖父が買い求めたものだったらしい。父の話では、当時はそもそも食うや食わずやの社会状況だったので土地自体がそんなに高くなかったし、住んでいたところは芸者や遊女の町で、そんなに高級な雰囲気でもなかったのだという。

それがあれよと値上がりし、気が付けばだれも相続税を払えないような土地になってしまった。

育った土地だし、親族の誰かは住んで欲しかったのだが、国から「お前らが住むより、ビルとか作って銀行とか入った方が国の経済のためになるから出ていけ」ということなので、あきらめるしかなかったわけである。

 

「最悪なのは、お金もコネも不動産も持たないのに東京の重力に魂を奪われ、東京の諸競争のスピードに呑み込まれている人達だ」

僕はこのエントリーは都市ー郊外論の中でも極めて優れた省察を短くまとめていると思うのだが、とくに終盤に放たれる表題のひとことが秀逸だ。東京で生活する人の現実を鋭く突いていると思う。

相続問題により、のほほんと暮らせる我が家を失った僕にとって、東京は生活を想像することがわりと厳しい場所だった。

条件的には上京地方民と同じ土俵に立って生活を組み立てなくてはならないのだが、「庭付き駐車場付きの戸建暮し」という甘えた状況を普通と感じてしまう育ちの上に、「上京」という精神的高揚イベントも経ていない自分が立ち向かえると思えず、何が何でも東京に帰る!という気合を持つことができなかった。

というわけで何となく柏に引っ越したりあれこれした末に、つくば市に落ち着いてしまっているわけである。

 

自分語りばかりですいません

なんだかんだで自分のことばかり語ってしまったが、言いたいこととしては冒頭の部分である。

芸術や文化、経済や技術にあれほど深い造詣をもつ都内の知り合いたちが、何を思いながらあの住環境の悪さだけを無いことのように暮らしているのだろうか、ということだ。
あまり具体的に書くとディスになってしまうが、雨の日の満員電車、石塔のようなタワマンからあふれ出る人々、喫煙所に煙を立ち上らせる喫煙集団。耐えがたく感じる人も多いのではないか

ついでに言うと、都心部の観光的過密化もどうかしていると思う。

僕の大好きな靖国神社の「みたままつり」は、あまり人が集まるために縁日の露店が中止になってしまったらしいし、千鳥ヶ淵のお花見も、警備員が付いてハンドマイクで誘導されながら行くような有様で、僕が子供のころのほのぼのとした思い出とはかけ離れたようすになっている。

 

東京のことは大好きだが、その東京が、自分が住むことが想像しがたい街になってしまっていくことに、一抹のさみしさがあるのだ。

努力2割

僕は麻雀を打つ。

小学生の頃、兄に付き合ってルールを覚えてから、そんなに熱心でもなくふらふらと打っている。最近はほとんどやってなかったが、この冬、久しぶりにやる機会があってちょっと集中的に打った。

そしてあらためて思ったのは、「基本的に運ゲーなのに、人の感情を絶妙に揺さぶるこのゲームバランスが、長きにわたって人々を虜にしてきたのだな……」ということだった。

麻雀は基本的に運の要素が大きく、ものすごく上手い人でも実力3割、運7割だというから、僕らのような普通の麻雀打ちの実力なんて勝敗の要因の2割ぐらいなもんで、残りの8割が運で決まるゲームに血道をあげていることになる。

が、この実力2割というのがポイントだと思う。

8割の運に頼って勝っただけなのに、2割は努力しているから、実力で勝ったような気になってしまうし、逆に、運が悪くて負けただけなのに、2割の努力に問題があったのではないかという気にさせられるから、「次こそ!」と思ってまたチップを突っ込むことになってしまう。感情をしびれさせるスパイラルが絶妙なのだ。

なのでまともな指南サイトには「1位になるときも4位になるときもある。たとえ負けても『自分は確率的に正しい打ち方をしていたのだ』と信じて、理論にブレを生じさないのが大事」と書いてあったりする。

しかし普通の人はこれができなくて「負けを取り返すべく、ここは勝負に出よう」と思ったりして、また大損を喰らうことになってしまう。

 

そしてこれは、株の取引きのコツに書いてあるのと全く同じ内容だ。
株をやる限り損が出る日もあるのだから、短期的な損にイライラせず長期的に取り組め、と。
そういった意味でも、株と麻雀は似たところがあるのかもしれない。
8割は運で決まるが、人は2割の実力で勝ったと思い込んでしまう。
そして勝った人は「必勝法」を得意げに語ってしまいたくなるので、その話を聞いて鵜呑みにした人は、「必勝法通りにやれば!」と勝負に挑むも、損する結果に終わってしまうのである。
結局のところ、必勝法などというものは何一つ無く、唯一あるとすれば「負けても頭に血が上らないないようにする平常心」ぐらいのものなのだろう。

そう思うと、たかだか麻雀2~3回ぐらいで一喜一憂してしまう僕なんかは全然株式投資に向いてないのかもしれない。(そもそもやっていないが)

 

そして、ちょっと大きな話になるが、人生もそのようなものなのかもしれない。

運・実力の割合、押し引きの加減。勝者の語り、敗者の弁。

これ以上書くと説教くさいことを書いてしまいそうになるので、ここらで筆をおく。

エッジの効いた名前

僕の人生にまつわる記憶の中で「エッジの効いた名前だ!」と初めて思ったのは、小学校3年生のときに転校してきた「タモンちゃん」だ。

タモンちゃんは本名を「阿曽沼 多聞」といい、そもそも阿曽沼というインパクトのある珍しい苗字をしているうえに、下の名前は「多聞」である。
「聞く」という字のはじめて見る読み方に全員が衝撃を受け、自己紹介の瞬間にみんな一発で覚えたと思う。

しかしタモンちゃんの親もすごい。
名付けの本なんかには「難しい苗字には簡単な名前を合わせるほうがいい」などと書いてあることもが多いが、そんな日和った意見など気にせず、堂々と「多聞」である。男らしい。

さらに言えば、苗字「阿曽沼」は転校して早々、クラスの出席番号1番になったため、いきなり名簿の先頭に並んだ、という意味でもインパクト大、とにかくエッジが効きに効きまくった名前で、あれから30年経った今でも「珍しい名前」という話題になると、真っ先にタモンちゃんの「阿曽沼 多聞」が頭の中に浮かんでくる。

タモンちゃんは創作のホラー話を次々と語ったりするひょうきんなキャラで、あっという間にクラスになじんだ人気者だったが、惜しいことに1年でまた別の小学校に転校していってしまった。

それからタモンちゃんの消息を知るものは誰もいない。
が、この間ふと思ったのである。

これだけエッジの効いた名前であれば、グーグル検索すればさすがに出てくるのではないか、と。

 

出てきた。

mof.go.jpなので、財務省にから出ている文章だろう。写真も載っている。もちろん大きく変わっているが、ほんのりとあの頃の面影がある。
そして著作のプロフィールを見るとこう書いてある。

 

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阿曽沼多聞(あそぬま たもん)
国際通貨基金IMF) エコノミスト
2003年慶應義塾大学経済学部卒業、2005年同大学大学院経済学研究科修士課程修了、2011年ボストン大学大学院博士課程修了。Ph.D. in Economics。2005年慶應義塾大学経済学部研究助手を経て、2010年より現職。2014年ボストン大学経済学部訪問研究員。専門は、国際金融論、国際マクロ、対外債務

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なんだろう、このときの圧倒的な時の流れを感じさせるプロフィールは。

「クラスで出席番号が1番」どころではない。

30年の時を経て「阿曽沼多聞」の響きに新たなインパクトが加わるとは、まさか思ってもいなかった。

タモンちゃんすごい。
「エッジの効いた名前」とか変な話してすいませんでした。

イラストレーターが買えない

僕は職業柄、オーダーデザインのはんこや印刷物を注文する必要に駆られることがある。そんなときに壁となるのが「入稿はIllustratorの.ai形式もしくは.eps形式に限ります」の文言だ。

急いで頼みたいときや、細かいニュアンスを伝えにくいときは、自分で作ったものをちゃちゃっと送りたいのだが、Illustratorなんという高級品は使える立場にないのでいつも悩んできた。

Photoshopならelementsをライター作業用に使っているので、これである程度シェイプの描画はできるのだが、いつの間にか.eps形式の書き出しに対応しなくなっており、不便なことこの上ない。

この問題、世のみんなはどうしてんだ、趣味でスタンプオーダー製作したいぐらいのためにイラレ買ってんのか。

もうあきらめるしかないのか思っていたが、最近少し進展したのでメモ書き。

1.大判出力はPDFでも受け付けてくれるところがある

調べたところによると、汎用性が高かったはずの.epsは最近少しシェアを落としているようで、.pdfに取って代わられた部分もあるとかないとか。そのせいか.aiや.epsだけでなく、.pdfでも受け付けているところもあった。

イラレを用いて作ったPDFを想定して書いている風ではあったのだが、ためしにしれっとフォトショップエレメンツでシェイプを用いて作成したファイルを.pdfで書き出して送ってみたところ、特に問題なく受け付けて、出力されてきた。

これは意外といけるかもしれない。ただしCMYKには対応していない。

 

2.はんこはInkscapeで作ったデータでもいける

イラレの互換フリーソフトに「Inkscape(インクスケープ)」という有名なのがある。残念ながら、.aiで書きだすことはできないのだが、.epsなら何とか書きだしてくれる。

しかし自分で書き出した.epsファイルなのに、読ませると読み込んでくれないという不安な挙動を示すので、若干信頼に足らないところがあった。

これも一か八かで、ビットマップ画像をパス化して、.epsで書き出して保存したものを某オンラインはんこショップに送ってみたところ、なんとか無事に作成してくれた。

これができれば勇気100倍、今後もどんどん安心してスタンプを作ることができる。

 

以上、貧乏でイラレが無くてもむりやり入稿に成功した2例の話である。ここ1週間の空き時間を全てかけて地道に調べて実践し、オーダーし、ようやく理解した。

もうこんなに長い時間をかけて調べるぐらいだったらイラレを買った方がむしろ楽だったんじゃないかと真剣に思うが、ここまで来たらもう意固地になって、イラレなしでどこまでやれるのか探究していきたいと思う。

Good Bye from つくば市桜

僕は先月引っ越すまで、つくば市の桜という町に住んでいた。
結婚を機に住み始めて10年、その間にデイリーポータルのライターを始め、猫を飼い、祖母と叔父と父が亡くなり、車も2台乗り換えた。
そして子供が産まれて2年、さすがにアパートでは手狭になったのでこの町から住み替えることにしてしまったんだけど、ちょっとこの10年間の思い出を書いてみたいと思う。

筑波大学が近い

ここに住み始めた一番の理由はペット可の物件があったことなんだが、それと大事なことがもう一つ、筑波大学の真隣であるというのがあった。

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学生寮に棲むネコたち

僕も嫁さんも筑波大の卒業生で、しかも大学に並ならぬ愛情を持つ同士なので、その地に近いというのはほんのりと感じる頼り甲斐にも似た安心感があった。
実際、足を骨折する前までは慣れた大学のコース道路を年中ジョギングしていたし、平日休みの日なんかは学食で仕事をすることもあった。
学生が多いから町の雰囲気も若くて活気があり、そういう意味でも気分のいい町だった。

 

公園がでかい

家のすぐ前にやたらでかい公園があり、これが大好きだった。
引っ越して一番残念なのは公園が目の前に無くなってしまうことだ。
でかい上に人が少なく、基本何してても目立たないのでデイリーポータルの撮影はほとんどこの公園で行った。

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こういう写真はほぼすべてここで撮影した

近隣の調整池となる公園だったので、豪雨のあとなんかにはなみなみと水が溜まり、結構な大きさの池になるのも良かった。
春は桜が咲いて、毎年花見が楽しかった。産まれた初孫を囲んでの花見写真は、惜しくも去年逝去した父の遺影になった。

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春夏秋冬、いつでも撮影に使える(天気図の記事より)

目の前にあるので子供を遊ばせるにもよかった。ちょっと育児で持て余したときなど、この公園に連れ出せば、ご機嫌斜めもすぐに治った。
公園の隣には小さい神社があって、日々に小さく詣でたり、きのこ観察をしたり、松ぼっくり拾いをしたりと、こっちの思い出も尽きない。

この公園ロスから回復するにはしばらく時間がかかりそうである。

 

森が多い、植物園が近い

桜の町は駅から遠く、広々として森も多い。先だっての公園に続いて保安林という謎の杉林、そこからのさらに栗林、それに続いて筑波実験植物園が広がる。森好きの身にとってはこの上ない環境だった。

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原始人ばかりですいません(黒曜石の記事より)

仕事に疲れ果てたときなど、森のゴミ拾いをして1日を過ごすこともあった。

そしてその南にある植物園には年間パスポートを買って通った。1番通ったときは、年間の企画展を全てコンプリートし、記念品一番のりを達成した。
春のサクラソウ展、夏の水草展、秋のきのこ展、冬の温室、いつ行っても楽しめた。

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この植物園から遠ざかってしまうのも、桜ロスを深める大きな一因である。

 

ツタヤ、パン屋、本屋

ツタヤが近くにあり、レンタルコミックをすぐに借りられるのも良かった。僕ら夫妻の最大の共通趣味は漫画読みなのだが、話題作は片っ端からレンタルコミックで読み進めることができた。
そこから少し歩くとグリグリという超絶うまいパン屋があり、そこのバゲットサンドを食べながら漫画を読む休日は桜時代の最大の贅沢だった。

本屋が途中で無くなってしまったのは残念である。

友朋堂という筑波大生の知を支えた名店があったのだが、出版不況により閉店を余儀なくされてしまった。閉店当日のシャッターが下りる瞬間には僕も駆けつけ、ツイッター民に報告しながらその最後を見送った。

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なお、その後本屋の跡地には24時間営業のドラッグストアが入ったのだが、いざ店が替わってみると、本屋時代よりもそっちの店に行くことが多かったのは、認めざるを得ない事実である。

 

それでも桜に別れを告げた

ここまで書くと、なら桜に家を建てれば良かったじゃないかという気もしなくはない。
事実、それでも悪くはなかったんだけど、「とにかく駅から遠い」という致命的ビハインドがあり、子供が自立して行動する上で駅から遠いのはちょっとかわいそうだなと、やはり思ったのだ。
前まではなんだかんだと月に4〜5回は都内に出ていたのだが、歩いて帰ると60分という遠い家路のつらさは身に堪えるものがあった。
新しく移った町である研究学園は駅前の町だし、もちろん気に入って引っ越したんだけど、桜に住んでいた頃の穏やかで小さな生活が早くも懐かしいような気がしている。

楽しさを全部楽しみたい

世の中にある楽しそうなこと全部楽しみたい、そう思って生きている。

ロックフェスも鉄道の旅も街角観察も、何でも行ってみれば、やってみれば、楽しい。デイリーポータルのライターもそう思って9年間続けてきた。

しかし最近いくつかのものをどうしても楽しめなくて、悔しい思いでいる。

YouTuberとスマホゲームとSNOW。

世間で大流行しているので、ちょっと触ってみたのだけれど、何が面白いのか全然共感できなくてやめてしまった。
YouTuberは細工の利いていない悪ふざけに見える。スマホゲームは同じシステムに違う絵を乗っけただけじゃないのか。SNOWに至っては意味不明だ。

と思い切って否定してみたが、若い頃は僕らもやはり同じようなものに夢中になっていたように思う。
深夜ラジオやファミコンやプリクラ。
僕らの親世代はおそらく、それらに若者が大盛り上がりになるのをこんな気持ちで見ていたんだろう。世代は繰り返す。

でもYouTuberは深夜ラジオよりたぶん少し面白いんだろうし、同じようにスマホゲームもSNOWも、少し面白くなっているはずだ。その「少しだけ面白くなっている部分」を味わえないのは、やはり悔しい。
なんというか、僕らの脳は「人生の中でそういう種類のものに盛り上がれるのは1回だけ」であるようにできているのかもしれない。

とすれば若者たちもそのうち僕と同じように新しいものを思えなくなるんだろう。
そして今僕がやりたいことに共感してこう思うに違いない。

「盆栽やりたい。何もかも忘れて、ひたすら夢中に盆栽やりたい」と。

 

作り続けることと「才能」

 

この言葉は心にしみる。

学生の頃、僕も一時、文章創作の道を考えたことがある。しかしそれが到底かなわぬ理想であることを思い知った出来事があった。ある一人の後輩が入学してきたことだった。

僕はそのころ大学の文芸サークルに所属していて、気が乗った時につらつらと書いた詩を文芸サークルの発表会に出している生半可な青年だった。

当時、詩作の世界で職業作家を目指すことはもはや到底かなわない時代だったのだが、それでも純粋に言葉の力を原始的に紡いでいくことのできる現代詩は魅力的で、それなりには頑張って取り組んでいた。

しかし、そのきっかけとなった彼は明らかに違った。作品を生み出すスピードと量が完全に別次元で、ミーティングのたびに、次から次へと新しい挑戦に満ちた新作を持ってくるのである。「湧き出し方」が比にならないのだ。

「気が乗らないと書けないー」なんて言ってばかりの自分。かたや次から次へと新奇な小説を生み出し続ける彼。その圧倒的な彼我の差に衝撃を受け、自分などとうてい創作の世界の門戸をたたく資格のない人間なんだなと自らを知り、すくなくとも職業作家になることはあきらめた。

※ちなみに、それが先日デイリーポータルに出てきた橋本である。

 

あのころから20年、才能というものについて考える機会が幾度かあったけれど、とにかく湧き出す力、いや、湧き出させ続ける力、ほど重要なものは無いのではないかという結論に達することはよくあった。

才能があるから作り続けられるのか、作り続ける努力のことを才能と呼ぶのか、そんなことはよくわからないが、もし何かの創作を始めようと思うひとがいるのなら、その人にはありとあらゆる「作らなくていい理由」を突破して、作り続けてほしい。そうでなければ才能があるかどうかもわからない。