デイリーポータルに記事を書きました。
しばらく育児に専念しようと休んでいたので、久しぶりに記事を書いた。
本業は今年からいよいよもって忙しいのだが、だからこそ月イチぐらい自分の好きなことを世に出していかないとなと思う。
1軸しかない車輪より、2軸、3軸ある車輪の方が長く美しく回るはずだ。
デイリーポータルに記事を書きました。
しばらく育児に専念しようと休んでいたので、久しぶりに記事を書いた。
本業は今年からいよいよもって忙しいのだが、だからこそ月イチぐらい自分の好きなことを世に出していかないとなと思う。
1軸しかない車輪より、2軸、3軸ある車輪の方が長く美しく回るはずだ。
■その1→【足首骨折・入院記録①初日~3日目 群馬での入院 】
■その2→【足首骨折・入院記録②4日目~8日目 手術までの日々】
朝食はなし。水は朝7時まで。
予定では9時に手術室の受付に並び、13時ころ病室に戻ることになる。
全身麻酔は群大病院で経験済みだったので抵抗は無い。看護師さんに渡された手術着に着替えて、車椅子に乗せられ手術室のフロアに向かう。
手術着で自撮り。まだ余裕があった。
さすが大病院、手術室の受付にはこの日の手術を待つ患者の列ができていた。活気のある市場みたいだ。受付が済むと、ずらっと並ぶ手術室のうちから、指定の部屋へと運ばれていく。システマティック。
多少緊張しながら手術室に入ると、そこは医師ドラマで見るセットの10倍ぐらい本格的な設備機器に囲まれた部屋で、思わず「うおぉ!本物の手術室!!」と思わず心が震えてしまう。
手術をしてくれるスタッフの方たちは明るく雑談で盛り上がっていて、患者の僕にも「入院しているフロアうるさいでしょー(笑)」などと話題を振ってくれた。手術を受ける人が不安にならないように、気を使ってくれていたのかもしれない。やさしい。たしかに、これから手術を初めて受けるというときに、部屋の中でスタッフが必要最低限しかしゃべらず沈黙してたら逃げ出したくなるだろう。
手術台の上に乗り、点滴を刺される。だんだん眠くなるよー、右腕が少ししびれる注射をするよー、など話しかけられながら談笑しているうちに意識は消失。
最後の記憶は右腕がだるかったことだった。
……
……
……
13:45頃、意識が回復。
僕は何かに乗せられて運ばれていた。
視界はおぼろだ。
看護師さんが「わかりますか、病室ですよー」と言っている。おそらく入院してた病室に運び戻されるときだったのだろう。
目を開くと家内と両親がいて、手を振っていた。いま思い出すと、死を迎える手前みたいな風景だったなと思う。両親も家内も意識を回復したのを見届けて、病室からは帰っていった。
朦朧とする意識の中、体の調子で気づいたことは、一つは麻酔の気管挿入でのどがカラカラとすること。もう一つは右上の唇が腫れあがっていることだった。(あとで聞いたら、気管挿入の管が当たってよく腫れるらしい)
その上、酸素マスクが腫れた唇に当てたっていて、とにもかくにも不快でしょうがなかった。
一刻も早くマスクを外したかったのだけど、覚醒後4時間は外せないとのことだったので、もうあきらめて眠りの中へ意識を逃げ込ませることにした。麻酔が残っているせいか、たやすく眠りの中へと滑り込めたが、それでも1時間おきぐらいに目が醒めてしまい、4時間経ってないことにがっかりする
そうこうしているうちに4時間たち、麻酔もすっかり醒めてきて足を見ると、左足はきっちりとギプスに巻かれてワイヤーハウスのようなもので保護され、右足には定期的に足を締め付ける機械が取り付けられてた。
この日のことも受傷当日のように記憶があいまいだ。(全身麻酔されてたんだから当たり前か)痛み止めのために点滴で流されていた麻薬の影響もあったのかもしれない。
右足を定期的に締め付ける機械だけがぷしゅー、ぷしゅーとちょっと狂気的に僕の右足を締め上げていたのが変に記憶に残っている。
右足の機械のおかげでぽつぽつと目覚めてしまい、あまり眠れない。
患部は格別耐えられないほど痛むということはないが、骨折後のように再びぱんぱんに腫れあがってしまい、そこをギプスで圧迫されているので、じーんと疼くような痛みが続く。骨折手術体験者が口をそろえて「手術後の方が痛い」と言うのもうなづける。
朝イチで採血をしたのち、午前中に看護師さんに手術着を脱がされ、全身を拭かれ洗われたのち私服へと戻った。ひとつ人間らしさを取りもどした気持ちになる。
午後イチでリハビリの理学療法士さんが来るが、点滴が入ってるのでまだ何もできない。しかしせっかくなので足を下ろしてみましょうかということになり、左足をベッドから下ろしてみたが、それだけで激痛が走る。リハビリどころの話ではない。今日のところはあきらめることになる。
昼過ぎに尿道カテーテルを抜かれ(激痛)、さらに人間らしい生活に一歩戻ることになる。しかし点滴は残っているので、車椅子でないとトイレに行けない。不便。
点滴は、痛み止めの麻薬を流すためにリンゲル液を流し入れているとのこと。麻薬は常時一定量が流入しているのだが、患者が枕元のボタンを押すことで一時的に流量を増量してくれる仕組みになっている。つまり痛みに応じて自分で麻薬を打てるシステムなのだが、やや退廃的な匂いがしないでもない。
麻薬を打ちまくってた頃の俺
そして夕方からは手術の影響で発熱してしまい、寝不足なのか麻薬なのか訳の分からない意識ぼんやり状態に突入して、スマホもテレビもろくに見られず、目をつぶっていた。結局、この日もただ寝ているだけに近い一日だったように思う。
あまり連続して眠れない。
というのも、点滴で強制的に水分が体内に入ってくるから夜中おしっこに行きたくなってしまうのだ。でも点滴のせいで松葉杖は使えないから、そのたびナースコールを押して車椅子を持ってきてもらうことになる。
さっきから点滴のことばかり書いているが、このように点滴があると本当に何もできない。シャワーも浴びられないから、このままだとまた看護師さんに服を脱がされて洗われるという情けない事態になってしまう。早く点滴を抜かねばならない。
というわけで午前中に来た回診の麻酔科医の先生に「一度麻酔を止めてみてください」とお願いしてみる。これで痛みが無ければ点滴も抜けて風呂にも入れるし、頭のぼんやりも治まるかもしれない。「じゃあ試しに止めてみましょう」と止めてもらった。
その30分後。
「いだだだだ!!」と叫びながら、左足の痛みで飛び起きた。
痛い。手術の傷跡がものすごく痛い。
思えば体を2か所骨まで切り裂いているのだから当たり前だ。痛くて痛くて汗が流れてくる。結局、午後の回診で先生に「先生、麻薬入れてください」と泣きついて再び麻薬を入れてもらうことにした。何だこの退廃感。
リハビリが13:30にあったが、結局点滴も抜けないし昨日と同じく足も痛いしで、やっぱり何もできず。
熱も引かないし頭痛もひどい。細かいものを長い時間見続けられない。少しでも仕事をしようとノートPCを病室に持ち込んでいたのだが、画面を見ていると倒れそうになるので、あきらめて結局この日も寝ていた。
朝イチで採血。
午前中に手術後初の便通。ここまで48時間、3食食べても何も出ていなかったのが、とつぜん1時間ごとに連続3打席大安打。急に体の調子が平常に戻ってきているのを感じる。
左足もそれほど痛くない。これならいけるかもしれない!と昼食後に点滴を抜いてみるが、特に問題はなかった。これで麻薬生活とはおさらばだ。俺は人間に戻ったぞー! グッドバイ、デカダンス文学。
喜びに浸りながら13:00のリハビリ、14:30のシャワーを楽しむ。足で歩けるって素晴らしい。お湯をお湯を浴びるってこんなに素敵なことだったのか。
とはいえ、もちろん痛いか痛くないかと言えば痛いので、必要最低限にしておとなしく暮らす。
夕方、予想より腫れの引きが遅いので、ギプスにカッターで窓を開けてもらい、手術後の傷口を診てもらう
急に回復してきたので、明日にでも退院になるかなと覚悟はしていたのだが、ちょっと腫れの引きが遅いので、もう少し入院とのこと。
痛かったので安心はしたが、仕事に戻れないことに少しがっかりもする。
体調は急速に回復する。腫れも順調におさまり、明日退院の許可が出る。
リハビリでは松葉杖の長距離移動と階段の昇降をやり、日常生活へ復帰のゴーサインももらえる。
入院最後の記念にと、車椅子に乗って患者専用のミニ図書室や院内学級を見学してみる。頭もすっきりしてきたので、ようやく本も読めるようになった。ノートPCを持ち出して、エクセルの関数を組みまくり、最後の最後まで引っ張っていた仕事も怒涛の勢いで片づける。かなり人間生活の地平に戻ってきた感がある。
ちなみに入院生活の最後の晩餐は春巻だった。
ここの病院食は、隙を見せると茹でキャベツが差しはさまってくる。最後も安定のキャベツで、ぶれない姿勢にリスペクトの念を覚えた。
退院。
こんな顔芸ができるほどの余裕も出てきた。
このあと2日間の自宅療養を経て、仕事へと復帰できた。
足は徐々に腫れが引き、体重もかけられるようになり、手術後10日後ぐらいには片松葉歩き、15日後ぐらいには松葉無しでもびっこ歩きぐらいはできるようになっていった。
しかし僕は、このあとまさかの再入院を迎える。
■その①はこちら→【足首骨折・入院記録①初日~3日目 群馬での入院 】
救急で搬入された群馬と違い、こんどの入院は着替えも充電器も入念に用意することができる。前の夜に準備を整え、満を持して筑波大学病院へ再入院する。
初日は午後にレントゲンを撮影した以外に特にすることはなかったが、回診でシーネを取って包帯を巻きなおしてもらうときに、久々に自分の生脚を見ることができた。
見たことも無いもようの内出血が。
家族が世話になったこともあり、病院内のことはわりと知っていたので落ち着いて過ごすことができた。
朝、手術の日程が4日後に決まりそうだと、主治医の先生から話をもらえる。
午前中にCTを撮影し、昼過ぎにシャワーを浴びる。シャワーは2日に1回をめどとして入ることができた。特に痛みも無く、本を読んだり絵を描いたりして過ごす。
夕方、主治医と担当医の先生から手術についての説明を受ける。
まず骨折についてはプレートを埋め込んで固定する。靭帯については脱臼時のようすを見ると足首内側の三角靭帯が断裂しているのは間違いないのでこれを縫合する。
CTを見ると他にも断裂している可能性があるので、開いてみて、切れているようなら縫えるように準備をして手術に臨む、とのこと。
ここまで治療の具体的な方針は聞いていなかったので、ずっと不安だったのだが、頼もしすぎて拝みそうになる。
何か質問はありますか、とのことだったので、1日だけどうしても出勤しなければならないのですがと頼んでみたら、手術の前々日に外出許可をもらえた。
朝イチに採血される。夕方に麻酔科での診察を受ける。
麻酔科で、群大病院で整復のときに使った麻酔薬はおそらくプロポフォールという麻酔薬ではないかと教えてもらえた。肝臓ですぐに分解されるため、短時間だけ一瞬で眠りに落とすことができるらしい。すごい。
スマホで調べて、その化学構造の簡単さにも驚いた。こんな物質で人間を無抵抗に眠りに落とすことができるなんて全く知らなかった。医学すごい。
それ以外に特になにも無かった。入院している必要はあるのかという気さえしてくる。本を読んだり、絵を描いたりして過ごす。むくみも引いてきて、松葉杖にも慣れ、翌日の出勤に向けて仕事の概要を打ち合わせする。
朝から外出して出勤の日。検査などは何も無し。
久しぶりの出勤。入院しているよりずっと充実した一日だった。
本来なら迷惑をかけた人に謝って回らなければならないところだが、業務のめどを立てるのに集中させてもらう。申し訳ない。
体重を測った以外に何も無し。ヒマなので服の洗濯などをする。
足に時間差で黄変やあざが出てきたが、痛くもないし、特に心配はない。
人体って不思議だなと思った
友達が手土産を持って見舞いに来てくれたので、屋上ラウンジでしばし楽しい時を過ごす。
左足のむくみもすっかりとれ、手術に向けての調整もばっちり。手術後、早ければ2~3日で退院できると聞いていたので、友達からもらったお菓子を食べながら、「手術まだかなー、はやく退院して仕事しなきゃなー」ぐらいに楽観的に考えていた。
このときまでは。
翌日、僕は「体にメスを入れる」ということの意味をやっと体感することになる。
■つづく↓
このあいだ左の足首を脱臼骨折して手術&2週間の入院をすることになったので、その期間の記録を残しておこうと思う。
遊びに行った先の群馬県で受傷。
足首が完全に変な向きを向いていたため、群馬大学病院の救急へ搬送。全身と左足のCT・レントゲンを撮影される。
診断は「左足首・脱臼骨折」とのこと。
足首が完全に外れている
ひととおり検査が終わったのち、「足首を元の向きに戻しますねー」ということで腕に挿していた点滴から麻酔薬を流され、ああっという間に眠りに堕ちた。
目が醒めると足首は無事に元の向きに戻っており、固い板(シーネ、というらしい)で固定されていた。そして病室へと運ばれ入院生活が始まった。
骨折直後の夕方。まだむくんでいない。
このあとの治療のめどが先生から説明される。
1週間もすると足のむくみが引くので、それを待ってから手術になるであろう、とのこと。足を専門とする整形外科医にやってもらった方がいいので、僕の自宅の近くで足の専門医を探してみる、という方針を立ててもらえる。
明日になれば松葉杖を買えるように手配するので、転院先が決まって茨城に帰れる目途がつくまでは、院内で松葉杖の練習をして過ごすといい、との話を受ける。
この日のことはそれ以外あまり覚えていない。突然の救急搬送から始まった入院生活が現実とは思えず、疲れ果て、夢を見ているような気持ちで全てのことが過ぎていった。
整復後のようす。足首側にある腓骨が折れたまま。
朝起きる。
が、もちろんベッドの上から動くことはできない。寝たきり状態でトイレも行けない。生まれて初めてしびん生活をすることになる。ただひたすらテレビやスマホを見て過ごす。
昼前ごろにようやく義肢装具士さんがきて、松葉杖を手に入れることができる。7500円。
リハビリということで誰かが歩き方とか丁寧に教えてくれるのかと思っていたら、そういうのは特に無かったので、実地訓練でリハビリを開始しなければいけないらしい。前日の折れた足首の残像が頭に残っているのもあり、移動すること自体に不安感が残るが、いつまでもしびんを友として暮らすわけにもいかない。
看護師さんに簡単に使い方を教わり、おそるおそる移動を始める。しかし、全く慣れないため、エレベーターで1階に行って帰ってくるだけでも手が真っ赤になり、全身は汗だくになってしまった。売店に行くこともできなかった。
というわけでリハビリはほどほどにして、病室に戻る。ここでおとなしくスマホでも見ていればよいように思えるが、僕は救急で搬送されたため充電器も持っておらず、必要最低限の連絡のために充電は温存しておかなければならない。
しょうがないので病棟の会話室にあるマンガを読んで過ごす。
窓の外の前橋市の風景を見ながら、平日の昼におれは群馬で何をやっているんだ、これは現実なのか、という思いが繰り返し頭の中を巡る。
群馬に知り合いがいないことはないが、さすがに平日の昼にいきなり「骨折って前橋で入院してます」と連絡されても困るだろう。そんなことを思いながら、廊下を行き交う看護師さんや患者さんを眺めていた。
後ろにあるのが買った松葉杖。ご飯は、おかずが多くて毎食美味しかった。
担当の先生の回診がある。
まだ茨城の病院と連絡がうまく取れず、転院先が確定しないとのこと。使い物にならなくなった足首を思い出して不安が募る。
足の専門医に診てもらえるのか、適切な時期に手術をしてもらえるのか。
気持ちを正直に伝えると、どうしてもというのなら、私が足の専門医を群馬県内で紹介して手術を受けるという方向も無くはないが、出来れば家族の近くに戻った方がいい、と勧められる。それでも、どうしても転院先がみつからなければ、最後には私が何とかするから、と言ってくれた。
そこまで言ってくれて、あたふたするのもかっこ悪いので、先生のことを信じて待つことにする。
次の日になって少し腫れてきた左足。
2日目の夜は眠れなかった。
初日は訳が分からなかったので眠りこけたが、2日目になるとマクラの形が自分の首に絶妙に合わないことに気付いたりしてしまう。手持ちにある唯一のお菓子だったハイチュウを舐めて気持ちを静める。普段甘いものを食べないが、こういうときなると甘いものって人の気持ちを静めるんだなあと実感する。
これまでどうやって茨城に帰るかが最大の問題であったのだが、兄がどうにか都合をつけて、群馬から茨城まで車ごと運んでくれることになった。
右足でどうにか運転できそうではあったのだが、先生からは「そんな足で運転してはダメ」とNGをいただいていたので、悩んでいた。
電車とタクシーで帰るにしても、杖でちょっと歩いただけで音を上げる現状では到底できるとも思えない。最後の手段として「搬送車」というものもあるらしいのだが、やはり自分の車は持ち帰りたい。
ここらのわがままをすべて兄が引き受けてくれることとなった。
ようやく明るい目途が立ち始めたときに、折良く先生から、筑波大学病院への転院が決定した連絡があり、不安の中過ごした群馬での2泊3日の日々に別れを告げ、円満に茨城へ帰れることとなる。
最後の昼ごはんで食べたうどん。一番おいしかった。
午後。
看護師さんから紹介状を預かり、車いすを兄に押されて、初めて見る病院の正面玄関を抜け出て(救急で運ばれたので見たこと無かった)、コンビニでコーヒーを買い、開通したばかりの圏央道を走り抜けて、茨城へと帰り、家族との再会を果たした。
そして3日ぶりに風呂に入って皮脂でねとねとになった髪を洗い、翌日から始まる入院生活に向けての準備を進めた。
群馬での3日間は不安と非現実感が全てだったように思い出される。そんな中、担当医の先生はとても頼もしく、とつぜん入院した僕の不安を常にやわらげてくれた。感謝しかない。僕が高校生だったら、あやうく医療従事者に進路変更するところだった。
■つづく↓
今年は子どもが生まれ、仕事も忙しく、インターネットで定期的にものを書く見通しを立てられなかったのでライター活動を休ませてもらうことにした。
せめてでもの代わりというか、デイリーポータルで理科的な相談に答える役をいくつかやった。それも含めてまとめてみよう。
理科の話は、詳しい人が自分から始めるとうっとおしいけど、知らない人が知ってる人に聞くスタンスだと楽しく読める。「美味しんぼ」で、海原雄山の話はうっとおしいけど、山岡さんの話は栗田さんがいるから入り込んで聞けるのと同じだ。
こうして役に立って嬉しい反面、自分は記事を書いていないくせに書いたような気持ちになってしまうので、甘えてしまうのもよくない気がしている。来年はライター復帰できるように頑張りたい。
人間ドック4年目、毎年同じ病院に通い続けている。
2年目ぐらいはバリウムでかなりイヤになったが、慣れてくると半日断食したり集中して検査をされたりするのもプチ入院みたいで、余裕を持って楽しめるようになってきた。全員が検査服を着てるのピースフルな休憩室で検査を待ちながら、本棚にある「三国志」や「ゴルゴ13」を読むのは悪くない。
きょうは黄巾党の乱から董卓の台頭までを復習した。名シーン「とてもつらい」も再読できた。
バリウムの苦手を克服したコツは、技師の人に「バリウム飲むのが苦手です」と最初に言うことだ。初めて行ったとき、若い女の子の技師に「早く飲んで―、全部飲んでー」みたいなプレッシャーをかけられて、それが苦手の壁だったんだけど、最初に言ってしまえば「2分ぐらいかかってもいいですから」と優しくしてもらえて、あの甘い石の粉に自分のペースで立ち向かえる。
検査の中では「眼圧検査」がいつも気になる。見える画面がスターウォーズの宇宙戦闘シーンみたいでかっこいい。それに油断しているととつぜん空気砲みたいなのを眼球に浴びせかけられる。ディズニーランドのアトラクションみたいだ。
検査は、眼球の正面に3回空気を浴びせられるまでしっかりと目を見開いていけない。目を閉じてしまうとやり直しである。
3回当たって、残機が3機やられてゲームオーバーみたいな形で検査が終わるのも面白い。
ところで僕の行く病院はやたらと受付が早い。指定時刻は8:30なんだけど、指定通りに行くと出遅れてかなり待つことになる。今年は学習したので、すごく眠いのを押して8時前に行ったのだが、受付番号は30番で特に早くもなかった。おかげでまだ目がぼんやりしているのに視力検査になり、全然見えなくてメガネを買わされるんじゃないかとあせった。
他の検査客たちはいったいいつ来ているのか。いったい何時に来たら一位を取れるのか。そして年々早くなっていったら寒稽古みたいになるんじゃないか。いろいろ考えてしまう。
検査結果は毎年ほとんど問題が無い。
ただおととし、血液検査だけものすごく悪かった。はじめて変な*マークみたいなの付けられた。しかし原因が前日にフルマラソンを走ったこと以外に思い当たらず、それを医師に言ったら認めてもらえなかった。
でもそれ以来ぼくは「マラソンは体に悪い」という説に確信を抱いている。
検査が全部終わった後に病院食堂に行くと、人間ドックの人限定で刺身と天ぷらの入った「ねぎらい膳」みたいなものを出してもらえる。
この食堂には「あしたのジョー」と「闇金ウシジマ君」があるから、バリウムの腹痛と闘いながら1時間半ほどゆっくり過ごす。
今日読んだあしたのジョーに出てきたボクサーは、丸っきりストリートファイターのブランカのモデルとなったのんだろうなというキャラだった。
野生で育って、素早い動きと長い手足で相手を翻弄しながら、回転パンチを放つ。
噛みついたりもするし、何よりあごのシャクレ具合がそのものだ。きょうもまた一つ新しいことを学んだ。
来年はどの漫画の何巻を読もうか、また楽しみに出かけようと思う。